洗礼に至れない信仰・フリーライダーの疑念・感覚について
最近、自分がよく見る界隈で新しいことがなされている。とかくここではその内実を述べるつもりはない。ただ単純に私はその新しい物事やその背景にあるバックストーリー(神話と換言してもよい)に関心が持てなかったのだ。
あるものが好きになったとして、それよりも範囲が広く大きなもの(たとえばそのファンたちによるコミュニティやいわゆる「箱(事務所)」など)に関心がなかったり、参加していけない人間もまたいるというお話です。
そもそも私は何かのコンテンツを好むことが非常に少ない。それはある部分だけを好くのは人の態度としていかがなものかと考える、美的基準があるからだ。
つまり部分ではなくコンテンツ全体を好める場合のみ、そのコンテンツを好んでいるといえる。
しかし、それだけのコストがかかるからだろうか。どうしても、私はそのコンテンツもまた内包する大きなものに関心を示せない。
私の中で推測していることはひとつ。私が志向する「感覚」というものが理性や価値判断より前にある衝動に近いがために、それを多くの者を集わせる大きなものの中心にすることができないのだろう。
感覚は人によって異なる。視知覚が人によって異なるように。それを共有するにはある程度物事の本質を捨象しなければならない。私においてはそういったものを「感情」としている。感情とすることで、私たちは善いものを摂取し、悪いものを退ける行動規範が得られる。感情は詩を奏でない。
もうひとつはそもそもそういった感覚を、他者と共有する意思がないのだ。プライベートなものであってほしく、またそこに踏み入れようとすることははしたないことだと考えている。
こうしてその感覚を私はここに正しく書いているわけではあるが、ここにどれだけ私が感覚に忠実に書こうとも、それには感情やらが付随する。またこれを読むあなたはあなたの感覚で私の感覚をとらえようとすることだろう。それらの感覚を一体誰が支配できるという。
クラシックではショパンが好きなのだが、私は音楽に非常に疎い。楽譜も歴史も知らないのだ。だが私はなんとなく彼の楽曲に対して、それほど他者とずれるわけではないし、また彼らと全く同じ解釈を持っていない。感覚は人と人の間に流れるが、それを誰かが持ち出すことはできない。
夜詩痕(Yoruuta Ato).icon