概念の継承–短歌を例にして
導入
行動するうえでの概念について。
このページでは短歌を例に考える。
短歌を作るって何だろう?ここでは、短歌を作るうえでの行動オプションから、それを考えてみる。
紅の靴に釘づけられて朝 どうかしていた君がいるのに
こういう歌があったとしよう。
この歌はちょうど五七五七七となっている。
字余りにしてみると
この歌を少しだけ変えて、次のようにしてみよう。
紅の靴に釘づけられて朝 どうかしていたよ君がいるのにさ
第四句と結句の音数を八にしてみた。印象はどう変わるだろうか。
「どうかしていた君がいるのに」はどこか棒読みのような印象を受ける。定型のかっちりとした感じが、感情の薄さという印象へと繋がらないだろうか。その印象は「よ」や「さ」という終助詞が無いことによるものだと、思うかもしれないが。 ときに字余りは、感情が溢れるときの表現方法として使われる。 音が定型のリズムから溢れ出ることで、感情の昂りを表わしているというわけだ。
あるいは、音数が増えることで、句のあいだの隙間が少なくなり、早口のようになるので、どこか焦ったような、言い訳じみた印象を与えるようにならないだろうか。
字余りと定型のどちらが良いか
短歌は五七五七七で作るものだから、字余りより定型の方が良いに決まっていると思う人もいるだろう。
だが、先ほどの改作例を見て、どう思われただろう。
字余りにしたほうが歌いたい情景をうまく表わせていると思われた方もいるのではないか。
もしそうなら、その人にとっては字余りしたほうが良いということになるだろう。
彼にとっての短歌の概念は「言葉を五七五七七のリズムに収めるもの」を超える。
「自分の表現したいものを適切に表現するためなら定型を破るべきときもあるもの」となる。
オプションを増やす
そうなると、短歌を作るときに意識すべきことは五七五七七に収めるということだけではない。字余りを選択肢のひとつとして考えるのも、また考えるべきことだ。
そして、そういう作歌のうえでの選択肢は、たくさんありえる。選択肢が多くなればなるほど、短歌は難しいものになると思われるかもしれない。
だが、個々の選択にかかるコストは、作歌に慣れていくにつれて減るだろう。そうして、ひとつひとつの選択にかかる心的なコストを減らしながら、選択肢の数を増やしていくことは、ひとつの方法だろう。
だが、そのような選択肢についての知識を増やすことが、良い短歌を作ることに直結するわけでもないだろう。
短歌の概念
はじめは、「五七五七七で自分の経験を表現してみましょう」ぐらいの話だったものが、どんどん先鋭化されていき、こだわりが生まれてくる。「短歌を作る」の概念がその人のなかで変わっていく。作品のクオリティが気になるようになる。
その概念は、作者の思い通りになるものではないし、仮に作者が思うがままに短歌の概念を設定できたとして、そうして行う短歌創作は面白いものだろうか?
短歌の概念は、過去の歌人が積み上げてきたものだ。積み上げてきたからには歴史がある。同じくまた積み上げてきたということは、その概念がどこか永遠の座に安置されたものではない。その概念はバトンのように、太古から変わらないものとして渡されてきたものではない。
魂の引き継ぎ
むしろ短歌の歴史は、短歌魂を引き継いできた歴史のようなものではないかと思う。「魂の引き継ぎ」という表現は実に曖昧だ。引き継がれるのは「短歌とはこういうものだ」という概念である。これは短歌の定義ではない。それは短歌の「無形の情報」である。 備考