森鴎外と諦念について思うこと
夏目漱石と並ぶ、近代日本を代表する文豪の一人である森鴎外。鴎外は漱石同様、近代的自我の苦悩──「明治以前の封建的価値観」と「明治初頭に輸入された西洋の個人主義や合理主義」に挟まれた当時の人々の苦悩──を描いたといわれる。それは正しいのだろうが、もっと具体的には、鴎外は「諦念」を描いたともいわれる。小寺聡編『もういちど読む 山川倫理』には、次のように書かれている。 森鴎外は人間の生きる意味を、その時代や社会の状況の中で、当人にあたえられた任務や使命とのかかわりを通してとらえた。彼は『阿部一族』や『興津弥五右衛門の遺書』などの歴史小説において、運命の中で最後まで自分にあたえられた使命や立場を貫いて生きる人間像を多く描いた。そして、歴史や運命の中で自己の立場や使命を冷静に引き受ける態度を、諦念(諦め・レジグナチオン resignation)と呼んだ。 諦念とは、ただ消極的に運命に身をまかすことではなく、自分が投げ込まれた運命を自己のものとして引き受け、その運命がおのれの立つ場であると覚悟して懸命に生きることである。森鴎外はそのような諦念に、人間の生きる道を求めた。──P242
私の心持を何という詞で言いあらわしたら好いかと云うと、resignation だと云って宜しいようです。私は文芸ばかりでは無い。世の中のどの方面においてもこの心持でいる。それで余所の人が、私の事をさぞ苦痛をしているだろうと思っている時に、私は存外平気でいるのです。勿論 resignation の状態と云うものは意気地のないものかも知れない。その辺は私の方で別に弁解しようとも思いません。 今日では、別に作者の意図通りに文学作品を読む必要はないのだが(とはいえ誤読は宜しくないだろうが)、仮に「諦念」という作者の意図通りの視点で鴎外作品を眺めたとき、その格調高い文章から立ち現れる含蓄を深く味わうことができる。
例えば、彼の代表作の一つ『雁』で、生活の困窮から高利貸しの末造の妾とならざるを得なかったお玉は、彼女が恋慕を抱いた岡田という学生と恋仲になることで、自身の境遇から脱するチャンスを夢想している。しかし結局、岡田ときちんと話す機会すら得られないまま、彼は洋行してしまう。他にも『山椒大夫』では、父を求めて母と女中と共に旅に出た安寿姫・厨子王姉弟は、その途中で山椒大夫に襲われて奴隷労働を強いられる。その後、二人が受けた拷問の身代わりになってくれた守り本尊(地蔵菩薩)が取り憑いたかのように様子が代わった安寿は、弟を逃し、彼女は入水する。 こちら明治〜大正期の石版画家・安村政子の、厨子王を逃がす直前の安寿姫を描いた美人画。個人的には、安寿姫から毅然とした内面の意志が表れている、良い絵画だと思う。 https://gyazo.com/bfba4b9fb572bb4e9e21afc007ccff95
この画像は表示されていないです!イタロー.icon
これで見れると思います!(毎度申し訳なく)
オケェイです!イタロー.icon
このように、鴎外作品は悲痛な最期を迎える登場人物がメインの作品が多いように思うのだが、これらには、たとえ暗い未来が待ち受けているとしても、自分の運命を肯定し、自分の人生や大切な誰かの人生を、少しでもより良いものに変えていこうとする主体的な自我の発露が見られないだろうか。これは上記に記載されているように(下線部)、運命にただ身を任せる受動的な人間像とは異なるものである。それに「結局、現状を変えようとしたところで普通上手くはいくまい」とする鴎外のペシミスティックな眼差しもまた、妙にリアルではないだろうか。けれども、私たちはそれを薄々勘づいていながらも、明るい未来を求めて、玉砕覚悟で現状に体当たりしていくしかないのだろう。そうでなければ、絶対に未来は好転しないのだから。そして、まさしくこの鴎外が作中で示している「諦念」こそは、万人の人生の一端を示す真実なのではないだろうか。