根源的な悪と表層的な悪
今回はまず根源的な悪と表層的な悪という概念を導入してみたい。鬼滅の刃においては、鬼の親玉である無惨が根源的な悪に当たり、個々の鬼が表層的な悪に当たる。個々の鬼は、無惨から血を分けてもらうことで、鬼化しているため、全ての鬼は無惨と繋がっているのである。それゆえ、個々の鬼という表層的な悪を倒しても、無惨という根源的な悪を退治しなければ鬼は無限に生み出され続ける。逆に言えば、無惨という存在を消すことができれば、鬼滅の刃における「悪」は全て一掃することが可能である。このように鬼滅の刃における悪の構造は非常にシンプルな構造をしている。後に他の作品と比較するとわかることなのであるが、他の作品は悪の構造がこのようなシンプルな構造をしていない。この鬼滅の刃におけるシンプルな悪の構造は、作者のどのような精神構造を反映しているものなのか、非常に興味深く感じているポイントである。
アンパンマンの場合、根源的な悪はバイキンマンであり、表層的な悪もバイキンマンである。この構造は一見、鬼滅の刃よりもシンプルに見えるが、鬼滅の刃のように悪を根こそぎにすることができない。上に書いたように、鬼滅の刃の場合、無惨を倒しさえすれば世の中の全ての悪を一掃できるのである。だがアンパンマンの場合はそれができない。アンパンマンは毎回のようにバイキンマンをアンパンチによりふっ飛ばす。これで危機はしのげるのである。しかしそれは一時しのぎに過ぎない。なぜならまたバイキンマンはやってくるからである。倒したはずのバイキンマンは何食わぬ顔でまたやってくる。バイキンマンを根源的に倒す方法がないのである。これは絶望に他ならない。
鬼滅の刃という作品も、読者にこれでもかというくらい絶望を突きつける。鬼を倒せたと思っても倒せない。何をやっても鬼はよみがえってくる。読者は絶望的な気分になる。しかし、そこで炭次郎はあきらめない。絶望を突きつけるからこそ、炭次郎の折れない心が際立つのである。このように鬼滅の刃の一つの特徴は絶望にあるのであるが、アンパンマンは鬼滅の刃以上の絶望を内包している。だが、アンパンマンの場合、不思議なことに、誰もその絶望を感じていない。作品内のキャラクターも視聴者も含めて誰も絶望を感じていない。なぜだろうか。それはおそらくアンパンマンが絶望のその先を描いているからである。ポスト絶望である。バイキンマンは倒してもまた戻ってくる。これに気づいた段階にはまず絶望が来る。次の段階には諦めである。「もう仕方がない。やつは倒しても出てくるんだ。」そして最後には、受け入れるのである。「もうやつと生きていくしかないのだ。」そう、実はアンパンマンは「悪との共生」を描いた作品であったのである。
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