有神論的な原子論
※講義を受けた夜詩のアウトプットです
ホッブズなどに見られるように、原子論には無神論がつきまとう。そんな中でもケンブリッジ・プラトン学派のカドワースは有神論的な原子論の立場をとっているようだ。 彼によればデモクリトス以降の従来の原子論ではなく、それ以前にあった生命や魂、精神を認める原子論こそが高貴で本来的な原子論なのだと主張する。
その根拠として、まず物質の運動や衝突では生命を説明できないことを挙げている。つまり生命というのは原子や物質といったものとは次元が異なり、より高次のものであるとした。
もうひとつは結果には原因のなかにあるものしかないはずという考えを挙げる。原子という原因から生命という結果は生じないという先の考えを強化する構図となっている。
ここからカドワースは生命や魂といったものが上位にあり、原子はその下位に存在するヒエラルキーを考える。また原子が生命の原因となるのではなく、生命が原子や物質の原因となることも主張した。(色々省いています)
このことを今日学んだのだが、私は二つの疑問を持った。
これは原子論と呼べるのか?
原子論というのは、どこまでも原子というものを想定し、それによってすべてが構成されているとするのがデフォルトだろう。
しかし彼の原子論では、あくまでも原子は生命の結果でしかない。原因が生命ならば、普通は生命論とでも呼称すべきではないか?
また自分の説がデモクリトス以前の原子論につながるとするのも良くないと考える。なぜ彼らを原子論と括ったのか?(歴史的な背景か。どうしてもその時代の最先端である科学を取り入れたかったの)
生命が原子よりも高次であるという前提ありきではないか?
これは私のあやふやな考えだが、現在原子よりも小さいもので世界を解釈しようとする量子力学(あってるだろうか?)のように、生命というものをこれまでの原子の箇所に当てはめて再構成した方が、西洋の中世で伝統的であった観念から出てきたであろうヒエラルキーを排して中立的に考えられるのではないかと思う。
個人的にはなるほどと思いつつ、これは原子論ではなく、あくまで観念論と原子論を結合させる思想だととらえた。