映像の中の暴力-「見る」ことの共犯あるいは共苦
以前Discordの方で、「映画における暴力について考えたいなあ」と呟いた時に、さいほんさんに紹介してもらった論文。 こちらのリンクから読める。
読むのがめんどくさい人向けに僕がその時にまとめた要約も載せる。
この論文は「暴力をみる」という行為について考察した論文のようだ。
暴力をみるといってもリアルで殴り合いをみるというより、映画やテレビ、ネット、メディアなどで「暴力映像をみる」という行為について〜のようだ。
まずフィクション、ノンフィクションの暴力映像の境界線について。
フィクションもノンフィクションもどちらも他者が苦しむ姿をみているのは同じなのに、ぼくらはノンフィクションだと娯楽としてとらえちゃうよね。
そら虚構ってわかってるからといえばそれまでなんだけど、最近ネット上の映像にしてもなんにしても現実か非現実か境界線の曖昧な暴力映像の消費が行われておる。倫理的な問題としてほってはおけんのじゃないか、という視点。
この映画は善良な一家が動機一切不明の青年たちの暴力により、一切助からない結末をむかえる映画らしい。
この映画は一家が青年たちの暴力に対して反撃、報復することもない。
つまり勧善懲悪的な演出が全くないので、観客のカタルシスが解放されずただ不快な気持ちなまま帰ることになるそうだ。 また同時に青年たち側の暴力シーンも排除しているのがポイントだ。一家が暴力に苦しむシーン自体は描写していない。観客の嗜虐的、窃視的な欲求も呼び起こさないようにしてるわけだ。
ハネケがなぜこんな楽しくない映画を作ったかというと、本来の暴力がいかに他人の尊厳を奪い傷つける行為であるか、娯楽として楽しめるものではないということ、「暴力を好んで消費する観客を批判したかった」らしい。 観客は「みる」ことで犯人たちといっしょに、この一家の不幸に加担しているという事実がある。
自分たちのカタルシスの溜飲を下げたいがために一家の苦しむ姿を延々と見て、暴力を受け入れ、ゲームの加害者になっておる。
暴力をみる側は往々にして、その映像に対して、自分が独立した対象で、中立の立場であると思い込みがちだけどほんとはそうじゃない。
現代、視聴者になぜそういう傾向が出てきたのかというと、主観と客観を分けて考える思考構造が発達してきたからじゃないか?という考察。 デカルトの「考える我」の主観が全体からの「個」の独立を勝ち取ったけど、そのせいで全体性の基盤は失われたんじゃないか?
主観(自分)→客観(苦しんでいる人)
という視点でしかとらえられない人が多い......
新たな主観、客観の捉え直し、個の捉え直しは必要だ
客観は主観から切り離されるものじゃないよー。
「暴力」を一方的に消費するんじゃなくて、共有しよう。ともに苦しんで、どうぞ。
『ファニーゲーム』においては観客も監督のハネケも共犯者なんだ。
暴力を描くなら、暴力をみるなら、暴力を共有する必要がある...「暴力性の共苦」が必要だね。