日本国と文化の創成
#日本史
4世紀頃から中国・朝鮮半島から日本に移住してきた渡来人が新しい技術や文化を伝えた。
ヤマト政権が彼らを組織的に受け入れたため、各地に渡来人を中心とする技術者集団が定着することになった。
漢字の使用も始まり、日本の人名や地名を漢字で表記をしたり、政権の記録や公文書などを、史部と呼ばれる渡来人たちの力を借りて作成するようになった。
『帝紀』や『旧辞』の述作も始められ、のちの『古事記』や『日本書紀』に繋がっていく。
589年に隋が統一した。
この頃では日本の推古天皇が即位し、聖徳太子らが協力し、法律や官位制度を定め、王権の編成を進めていった。
607年に遣隋使が派遣され、618年に唐が隋を滅ぼしてからは、引き続き遣唐使が送られて、大陸の先進性の摂取に努めた。
支配者が大陸の文化や制度を独占的に輸入することによって、国家の仕組みを作り出し、権威を高める動きが進んだ。
仏教の興隆
律令制による支配体制の整備
漢詩文の創作
法隆寺に代表される7世紀前半の飛鳥文化、それに続く白鳳文化(薬師寺東塔・高松塚古墳壁画など)が生み出された。
710年には平城京遷都が行われ、奈良時代の幕開け。
平城京は、唐の首都長安に倣った都市計画で、碁盤の目状に道路が広がり、北部中央には天皇の生活場である内裏と公式の儀礼の会場となる大極殿、官公庁街を含む平城宮が置かれ、貴族の邸宅や興福寺・東大寺などの大寺院が建ち並んでいた。
天皇のもとでの律令国家が確立し、政界では藤原氏が力を伸ばしていた。
奈良時代の天平文化は国家体制の充実や貴族社会の成立を反映したものといえる。
この時期に、口承による物語的な『古事記』、漢文の編年体をとる『日本書紀』という性格の異なる二つの歴史書が編纂され、文学の分野では最古の漢詩集『懐風藻』、和歌を集めた『万葉集』が成立した(日本文学史概観(近世以前))。
鑑真によって戒律が伝えられ、正式な僧侶を認定するための戒壇が東大寺に設けられた。
聖武天皇の遺品である正倉院宝物のなかには唐だけでなく西アジアや南アジアからの渡来品も多く、当時の宮廷生活のおおらかな国際性を示している。
参考:『日本文化の源流を探る』