数学にまつわる話あれこれ(はじめ)
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11/13土
イアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるか』が届き読み始める。非常な知的興奮を感じる。ここまでの所だが、ハッキングの問題意識が自分の問題意識に近いように感じる。自分が今までおぼろげに感じていたことを、ハッキングが明確に言語化している感じというか。算術と幾何学の捉え方とかカント哲学の捉え方とか。
ずっと自分には算術と幾何学が同じ数学と呼んでいいのかという疑問があるのだが、この問題意識は大事だなと改めて感じた。問題意識を持つことが探究への第一歩だからである。(イアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるか』を読んで)
10/25 月
数学、論理学などの記号と規則で成り立っているような学問における言葉の意味とは何か、というような問題をよく考える。ここでいう言葉とは数学的な記号などではなく文字通りの言葉である。例えば数学のチャート式などをやっていると、言葉による説明がよく出てくる。これは学習者の理解を助けるためである。これは直観的なイメージを利用しているという側面もある。果たしてこのようなことは数学に本質的なことなのだろうか。逆にいえば、一切言葉を用いずに記号のみで数学の命題を伝えることは可能なのだろうか。もしくはこれは数学においては本質的なことではなく、伝達の際に必要とされることなのだろうか。このような記号体系における言語の役割という問題が『論考』にも出てくる。
高校の物理の勉強をしていても似たような課題を感じることは多い。高校物理の問題は、直観的なイメージをベースとして問題を解いていく場面が多い。しかしこの直観的なイメージという曖昧なものをどのようにして学習者に教えることができるというのか。もちろん現実的には絵や画像、具体物を使って教えている。だが、このイメージを思い浮かべる力というのが学習の本質的な要素として求められるというのは、それでいいのかなとは思うポイントである。
これは中学校の数学における図形を思い浮かべる力ということにも似ている。中学数学が苦手な子の中には、この図形を思い浮かべる力が無いというのが大きな原因の一つとしてある。教科書の中で二次元で書かれた絵を頭の中で三次元のものとして復元する力が無いのである。これを補うための指導法として、具体物として三次元の図形を提示したり作成をしたりする方法がある。しかしこれを繰り返すことにより、二次元から三次元につなげる力が養える保障はない。ここで3パターンの生徒が考えられる。①最初から二次元から三次元への復元力がある子。②具体物での訓練を積むことにより復元力を習得する子。③訓練を積んでも結局復元力を習得できない子。このような復元力という問題は数学の記号を展開していく力とはまた別物のように思う。しかしいわゆる勉強が得意な子というのは、復元力も記号展開力も当然のように備えているから不思議なものである。
自分には元々幾何学と数式を同じ「数学」という言葉で呼んでいいのかという根本的な疑問がある。数学史的にはデカルトがこの二つの分野を解析幾何学という形で融合していくのであるが。でもこれは結局50:50の融合なのではなく、幾何学を数式に還元するものだろうなというのは思う。数学史的にはここから数式優位の文化になっていく。
2021/9/16
論理学は記号を相手にしている感じがあるが、数学は純粋に記号を相手にしているといえるのだろうか。「数の世界」という客観を相手にしているのではなかろうか、という疑問が頭をもたげる。たとえそうだとしても現実の世界の混沌と数の世界の混沌とはやはり質が違うだろう。
数学は発見なのか創作なのか。考古学のように何か眠っているものを、ただ人間が掘り出しているのだろうか。人間がいなくても数学は存在するのだろうか。