数えることを総合の一例とする【純理】
これの説明として数の計算の話が出てくるが、脈絡が分からない。
訳文比較(訳によって意味が異なるので)
それだから多様なものの綜合における統一は、綜合という概念によって必然的になるのである。[岩波文庫上巻p151]
だから総合という概念のもとでは、多様なものが総合されることは必然的なことである。[光文社古典新訳文庫2巻p70]
え……久住哲.icon
まず意味が分からない
2つの訳文の意味が違う
前者は〈統一が必然的になる〉と言っている
後者は〈総合されることは必然的なことである〉と言っている
必然的だとされるものの主語が異なる。なお、岩波文庫の方が原文に忠実。
原文で読んでいくと、ひとつの分かり方を得る
「総合」がアプリオリに「統一」という根拠=足場に支えられたものだと言われている
総合がそれを規準としてなされるところの概念については、「統一」が必要である。足場だから
だから「統一は……必然的になるのである」
まあつまり、統一が総合の条件なわけだ。だから「アプリオリ」と言われている。
つまり要点は〈Einheit → Synthesis〉
この箇所は、Synthesisって最初に注目すべきものやで!と言われて、その後の箇所
このSynthesisっていう第1っぽいものをさらに遡るとEinheitに行き着くぜ……って感じでは。
とはいえ、これだけだと「十進法」がEinheitの例として出された経緯は未だ不明瞭。
Die reine Synthesis, allgemein vorgestellt, gibt nun den reinen Verstandesbegriff. 一般的にみれば、純粋な悟性概念といったものを与えるものといえば、それは純粋な総合だろう。
Ich verstehe aber unter dieser Synthesis diejenige, welche auf einem Grunde der synthetischen Einheit a priori beruht: so ist unser Zählen (vornehmlich ist es in größeren Zahlen merklicher) eine Synthesis nach Begriffen, weil sie nach einem gemeinschaftlichen Grunde der Einheit geschieht (z.E. der Dekadik). カントはずっと数学のイメージをもとにしてこれを書いていた可能性がある久住哲.icon
Unter diesem Begriffe wird also die Einheit in der Synthesis des Mannigfaltigen notwendig.
Ich verstehe aber unter Synthesis in der allgemeinsten Bedeutung die Handlung, verschiedene Vorstellungen zueinander hinzuzutun, und ihre Mannigfaltigkeit in einer Erkenntnis zu begreifen. Eine solche Synthesis ist rein, wenn das Mannigfaltige nicht empirisch, sondern a priori gegeben ist (wie das im Raum und der Zeit).
また、同一視といったものを極めて一般的な広い意味でとって、それをこう理解してもいる。それは、いくつかの表象同士を付け加え合って、それらの変化に富む様をひとつの認識に収めるような行為である、と。そういった同一視のうちで、純粋なものといったら、変化に富むものが経験的にではなくアプリオリに与えられている場合のものだ。(ちょうど、空間と時間におけるそれが、そこに該当する。)
Vor aller Analysis unserer Vorstellungen müssen diese zuvor gegeben sein, und es können keine Begriffe dem Inhalte nach analytisch entspringen. Die Synthesis eines Mannigfaltigen aber (es sei empirisch oder a priori gegeben), bringt zuerst eine Erkenntnis hervor, die zwar anfänglich noch roh und verworren sein kann, und also der Analysis bedarf; allein die Synthesis ist doch dasjenige, was eigentlich die Elemente zu Erkenntnissen sammelt, und zu einem gewissen Inhalte vereinigt; sie ist also das erste, worauf wir acht zu geben haben, wenn wir über den ersten Ursprung unserer Erkenntnis urteilen wollen.
【拙訳】私たちの色んな表象について原理追究するとしよう。どんな原理追究であっても、まずは同一のものと見られたもの……これが与えられていなけりゃならないし、およそいかなる概念も、[認識の]内容ということに関しちゃあ、それが生ずるための原理となることはできない。なにか変化に富むものが同一のものと見られたとき、(それが経験的であれアプリオリであれ)それによってようやく、原理追究が必要とされるような認識が生まれる。たしかにそれははじめは、粗雑で、混乱しているかもしれない。だからこそ原理追究が必要なわけなんだけども。一方で、同一視するということは、もともと認識のために構成要素を集めて、何らかの内容を組み上げることである。[すなわち、総じて概念の中身といったものを考えたいなら、同一視というものは避けて通れないわけだな久住哲.icon]つまり、もし私たちが自分の認識の最初の根源について判断を下したいと思ったならば、まず注意すべき第一のものはこれなんだ。
[B103]
ヒントになりそう
原則の分析論
第2章 純粋悟性のあらゆる原則の体系
Synthesis nach Begriffe
3巻の第3の類比
Synthesis nach Regeln
このページでも十進法が例になっている。