情動の認知評価説
その理由としては以下のものが指摘されている。
2要因説に関するその後のいくつかの追試実験でははっきりした結果が見られないこと
実験室以外の実際の場面では、情動が2要因説のような説明不可能な生理的な興奮によって生じることはほとんどありえないこと etc)
①個人とその個人が置かれている環境との関係について、どのように個人が評価するかの、認知的評価の成分から始まる。現在の状況についてのこの個人的な評価から、個人は一連の反応が生じる。
②その中で最も頻繁に認められるのが、情動の主観的体験の成分であり、これが、情動がもたらす感情状態である。
③さらに認知的評価から、思考と行為の傾向を含んだ成分、すなわち特定の方法で考え行為するための衝動が生じる(たとえば、なにかに興味をそそられれば、もう少しそれを調べてみたいと思ったり、それを手に入れようとしたりする)
④内的な身体的変化の成分で、とくに自律神経系の反応が生じる。その結果、心拍数が増大したり冷汗が流れたりする。
⑤表情の成分。特定の方法で眼、花などを動かす筋活動(たとえば、嫌悪を感じた場合、しかめ面をする)を生じる。
⑥最後に、以上の②から⑤までの情動反応に対する応答成分、すなわち、どのようにして情動、または情動を引き起こした状況に対して、調整し、応答し、対処するかの問題である。具体的な状況ではこの応答によって、さらに個人と環境との関係が変化して、また新しい情動反応が生じる、といった可能性が考えられる(図の一番長い矢印)。
https://gyazo.com/4d8eb3a14e41db3354e50ee0b4e79c3e
このような現代の認知評価説の多くは、情動に際して、生理的喚起の成分よりも先に認知的評価が生じ、興奮が、認知的評価によって引き起こされる、ということを前提としている。
そして情動経験の強さは、興奮の程度と評価によって、また情動経験の質は評価によって決定されるとしている。
なお認知的評価説では、評価がすべて意識的レベルで行われると仮定しているわけではない。たとえば、ジョギング中にヘビに似たものに飛びのくのが、後で縄だと認知するように、無意識レベルの評価によってまずすばやく回避行動がとられ、その後で意識的レベルの評価によってより詳細な分析がなされて次の行動の選択が行なわれる、という二重の評価過程が想定される。