実はコミュニケーションは難しい
コミュニケーションが難しいと感じることやコミュニケーションの齟齬が生じることはそれ自体は悪いことでは無い(コミュニケーションの齟齬を悪いものとしたらだれもコミュニケーションをできないはず) それでもコミュニケーションの齟齬が起きているとモヤモヤする
自分の中にある自己開示欲求だとか、自分を誤解されることへの恐怖心から来るものだろうか?
難しさの原因となっていそうなこと
「相手の話していること」について、「相手が前提としていること」と「自分が読みとった前提」が一致している必要がある
コミュニケーションとは意思疎通でありながら、実態はそうだろうか。お互いがある約束事を了解するという目的で言えばそういった諸前提の一致が必要であるし、情報伝達という目的で言えば計算機械並に厳密なプロトコル(文化的取り決め)が必要だろう。あるいは、形態素に分けて、いやその非言語コミュニケーションも含めて談話分析すれば、どんな立場の人もその意図を思い至るだろうか、まぁ厳しいか。つまるところお互いの実存の想起である。徹底すれば聞き手に対してその話し手が伝える伝え方は態度である。この態度を用いて、精確に伝達しているよだとか、こういうふうに誤解してくれとか、言葉に出して責任を負ってくれとか、嬉しさを共有したいだとかいうマニピュレーション(心理的操作)の戦略が立つ。聞き手に期待することを適切なマニピュレーションを付帯させて表現するこの態度が話し手のハードルである。聞き手の決断はこの話し手の態度を受容するか否かというところである。正確でない表現を指摘したり、自由な解釈を認めたりするところは聞き手自らの意思や生き方に基づいた判断がありうる。精確な諸前提の一致が必要であると欲するのはその意思疎通を円滑にするための任意のプロトコルであって、必然的ではない。かりふぁ.icon 「相手が『言いたい内容』」と「自分が理解した『相手の言いたい内容』」が一致している必要がある
それでいて、「相手と自分の間」の認識には差異がある
つまりコミュニケーションが正常に成り立つためには
相手と自分が同じようには理解しないと認識すること
それでいて相手と自分の間の認識と前提を一致させようとすること
というふたつの壁が存在する
ここからは個人的な話
なんというか、私は「相手が自分の言っていることを自分の望むように理解してくれるはずだ」と無意識的に考える節があるらしい(基本的に文章を誰かに読んでもらうことがなかったからだろうか?)
加えて、「一つの文章に色々な意味を圧縮して送ってしまう」という悪癖もあるよう
ただ、テキストにとどまらず、コミュニケーションに関わるような行為全てに「齟齬の解消の不可能性」がありそうな気がします。塩ミルク.icon
齟齬の解消の不可能性だけでなく、齟齬の回避不可能性に関してもまたそういうような気がします
久住哲.icon「テキストにとどまらず」というのは、対面での会話であったり、電話であったり、そういうことですか
はい、そうです
久住哲.icon「全て」ではないと思います。すなわち、齟齬を解消できるやり取りもあります
論理学的な命題、とかでしょうか塩ミルク.icon
久住哲.iconそれも含みますが、それだけではありません。「齟齬の解消」が起こるための条件が簡単なケースがあるだろう、と思うのです
つまり、「相手と自分との間の理解が一致することが簡単でありうることもある」ということでしょうか塩ミルク.icon
トートロジーかもしれない塩ミルク.icon
「齟齬の解消」と「相手と自分の間の理解が一致すること」が同じであることとして捉えた上で発言してました、ただ、「相手と自分の間の理解が一致する」がなんだかよくわかっていなかった以上、果たして本当にトートロジーと言えたのでしょうかね、この場合はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の「同じことを言っていて結局何も言っていない」みたいな意味です(書きかけ) 「トートロジー」という言葉が多義的だ、ということはあると思います。めっちゃ多義的っぽくなさそうな言葉だけど、けど、実際『精神と自然』で解説されているトートロジーと『論理哲学論考』で定義されているトートロジーは意味が異なる久住哲.icon 「齟齬」は「噛み合わなさ」を意味するものであると考えれ、「一致」の対義語であると考えられる……というのは理解ができることです。いっぽう、「齟齬」という言葉が、会話のスムーズな進行の「障碍」を意味することもある。この場合、「齟齬の解消」は「お互いに気持ちいい仕方で会話が先に進む」といったことを意味する場合もあり、もしもそうであれば、トートロジーとは言えないような気がする久住哲.icon
それに答えるまえに、次の問題を片付けておく必要があると思います久住哲.icon:
相手と自分とのあいだで理解が一致するとはどのようなことであるか?
「相手が言ったこと」、もっと詳しく言えば、「相手と自分の間のコミュニケーションの間で、自分に向けて放たれた言語的な行為とその具体的な言説そのもの」について、自分と相手の間で「どのように理解したか」、つまりは「相手が言わんとしたこと」だとか「相手が言っていることに含まれている概念や意味」についてどのように捉えたか、ということが概ね同じような内容になること、だと考えてますが、(書きかけ)
「相手が言ったこと」にはいくつかの意味がありえます久住哲.icon
1. 相手が言った言葉そのもの(文、文章、スピーチ)
2. 相手が言わんとする趣旨、相手の言いたいこと(意図、気持ち、想念)
3. 相手の言葉、文が言っている内容(概念、意味)
これらは区別する必要があるでしょう。すなわち、各々を個別に論ずべきだと思う
「1. 」のレベルの齟齬解消の実例
「相手の自分の間のコミュニケーションの間で」は「相手と自分の間のコミュニケーションの間で」ですか?
誤字ですすみません
これが「1. 」のレベルでの齟齬の解消の実例だと思います久住哲.icon
あ、なるほどです
お互いの間に共通の何かしらの規則がある、もしくはそれを知識として習得しているならば、少なくとも文法的事項についての齟齬(例えば「誤字脱字」、「文法的誤り」等)を解消することは出来る、ということですかね?
少なくとも「1. 」のレベルの場合、「2. 」のレベルとは無関係に……すなわち相手の気持ちを全く考慮しないままに……相互了解をとりつけることが可能だ、ということですね。やろうと思えば、そのときに規則の話をすることもできると思います。しかし、今回の実例の場合、特に規則の話をするまでもなく相互了解ができた。このスムーズさが何ものでもないとは思わない。私たちは基本的には、説明なしに相互了解するものなのではないか。つまり、理解に基礎がなければならないという前提は疑わしいのではないか……私はこう思います久住哲.icon
なぜ書き手ではない者(読み手)が誤字を察知できるかといえば、彼が日本語の文法に習熟している、あるいは日本語の慣例的な記述法を「知っている」から。これは「2. 」のレベルでの理解を関与させなくても可能な理解です。久住哲.icon
ただし、仮に塩ミルク.iconさんが「いや、こういう書き方もありますが?」と踏ん張ったら、久住哲.iconは「む、そういう書き方もあるのか?でも見たことがない」と不審に思い、文法的な解説を求めるかもしれない。この場合、日本語文法に習熟しているはずの読み手(久住哲.icon)は、習熟しているはずなのに、確信が持てない状態に陥っている。そこで更に確認する。これに相手が答えられない場合、「意地を張っているのだな」という判断が下されるかもしれない。これは「4. 」のレベルでの理解であり、このとき、発言はそういう発語内行為と見られている。久住哲.icon この実例が示唆すること:いわゆる「相手の意図の理解」や「相手の言説の内容の理解」も、文法的レベルの齟齬解消(相互理解)と似たようなアプローチで実現することができるのではないか。
なるほどです
コミュニケーションの齟齬を治そうとして焦って余計変な方向に曲げてしまうという悪癖も
コミュ障なのでコミュニケーション関係になると理解力がゴミカスになる
しかし、コミュ障とは一般的には語彙力だとか日本語文法の正しさとかのそういう言語習得の度合いの未熟さ、によってそう見られることはあまりなさそう?
むしろ「コミュ障」は「言葉が出てこない」故のそれと、「言葉が出てきすぎて選べない」故のそれをふたつ持っていそう?
つまり「コミュ障である」とは単純にコミュニケーションにおいて言葉が上手く出てこない、もしくは出てきたとしても不適切な言葉を選択してしまうようなことに陥ってしまう人のことを指していて、それは特に必然的に「語彙力や日本語習得率が弱い人」とは限らない。
逆に、「語彙力や日本語習得率が弱い人」でも、コミュ強であることはありうる。
語彙力がなくても「理解力があること」自体は普通にありうる(それをするには「翻訳」的なことが必要かもしれないが。)
久住哲.icon「語彙力」や「理解力」などの「〜力」というものが前提されているが、それらの実在性は、疑うことができる(cf. ブックカタリスト052) ここでの「実在性 reality」とは、そういった力が行為に実際的に作用するか否かに関わるものである。すなわち、ここで疑われているのは、力の因果性だ。
以下のことを疑っている:力というものが人の中にあり、その力が人の行為に影響を与えることで、その人のパフォーマンスの良し悪しを左右している……ということ。これを疑っている。
「語彙力」やら「理解力」などの力の実在性を疑うこと(書きかけ)
「語彙力」は、とりあえず「どれだけの言葉を知っているか(どれだけ日本語の単語を知っているのか)」という度合いであり、「力」と言うよりかは「単語習得率」ぐらいの意味合いだろう、(まあそれでも何かしらは疑えるだろう)
「日本語が下手であること」「発話の理解が下手であること」「『コミュ障』であること(「一般言語コミュニケーションが下手であること」)」はそれぞれ別々の領域?
「日本語が下手であること」は必ずしも「相手に取って理解がしにくいコミュニケーションをとる」とは結びつかない?
「私行く学校今日」や、「今日です私行 学校」のような文章は「1.文法的事項」からは明らかに外れているが、それでも大体の人は「2.内容的事項」を理解することが出来るはず。
「とうころもし」だとか「おまたじゃくし」、「パワソレブー(パワーショベル)」等の(言いまつがい的)「齟齬」はどちらかと言えばこっちに属しそう
「総天然色の青春グラフィティや一億総プチブルを私が許さないことくらいオセアニアじゃあ常識なんだよ!」
「1.文法的事項」における齟齬がないが、「2.内容的事項」と「3.概念的事項」が読み取れないような文(修正)
「総天然色の青春グラフティ」や、「一億総プチブル」等の文節において、単語どうしの不適切な繋がりは無い(ワードサラダとはまた違うような何かしら)
「一億総プチブルを私が許さないこと」と「オセアニアじゃあ常識」とのあいだに適切な繋がりがない久住哲.icon
これは「3. 」における齟齬だが、塩ミルクさんは「2. 」における齟齬だとしている。ここにすでにディスコミュニケーションがあり、この点が修正されなければ、食い違いはずっと続くだろう久住哲.icon
who:私が許さないこと what:総天然色の青春グラフティや一億総プチブル where:オセアニア how:常識
ただこれは「単なる理解不能な文」とも捉えられる
「2.内容的事項」をより際立たせるために、「赤ちゃんが泣く時」のような状況を想定する。
前提として「赤ちゃんが泣くのは親に何かを伝えたいことがあるから」という認識がある
「赤ちゃんが泣いている時」それは一体何を意味しているのか
単なる生理現象
「母の不在への不安」
オムツを変えて欲しい
おなかがすいた
等
ただし、これらのことがらは、赤ちゃんの泣き声を聞いたものが勝手にそう解釈してるだけ、とも捉えうる
それは、赤ちゃんは「まだ言語によって分節化されていない世界の中を生きている」からであり、赤ちゃんの側には「私は〇〇をしてもらいたい」というようなはっきりした形で文が成立していないはずだから(1.文法的事項、及び2.概念的なの欠如)
で、この時「2.内容的事項」において齟齬が生じるとはつまり、「赤ちゃんが泣き止まないこと」であるが、この時、赤ちゃんの側には「1.文法的事項」と「3.概念的事項」が欠如しているために、泣き声を聞いた側は何が違うのかを推し量りがたい
もとい、赤ちゃんの泣き声は、単なる不快や欲望を表す「標識」である、のような考えも可能
「コミュ障」であることと、「理解力がゴミカスであること」は因果律として必ずしも成立しない
単純に私がこのことについて苦手である、もしくはそう言う意識を持っている、と言うだけの話
コミュ障であったとしてもコミュニケーションに関する理論自体は理解できる可能性はある。(それを実践できないのが恐らくコミュ障)
久住哲.icon「コミュ障」も「理解力」も実体(を持ったもの)ではないと思う。ただし、次のようなことは言える。「私はアラビア語を知らないので、その言語圏で暮らすにはコミュニケーション上の障碍があり、日常会話レベルの理解力すらない」
「コミュ障」は何が苦手、もしくはそう感じるのだろうか?
「コミュ障」はいわゆる「陰キャ」という概念とは違う ex:(「古見さん」と「ぼっちちゃん」)
あくまで「陰キャ」や、「コミュ障」とは学術的あるいはその辺の正確性や定義を欠いた、かなりふわふわした言葉なので、その言葉をあまり無配慮に使用するのは適切では無いし、別に(私の知る限りでは)学会において何かしら承認を得た言葉では無い。(「いわゆる」だとかの留保を込めて使われることはありえるが)
「コミュ障」は単純に「コミュニケーションが苦手あるいはコミュニケーションを行うのにかなりの注意が必要」な特性
「陰キャ」はそれに加えて、「自己肯定感の低さ」「『陽キャ』に対する劣等感」だとか、「『空気』の読めなさ」、「消極性」みたいなものが加わってくるのかもしれない
そもそも「陰キャ」とは「陰の『キャラクター』」の略称であり、「陽キャ」との対比において成立している概念だと思われる
(正直に言えばこの言葉あんまり好きでは無い)
「コミュ障」が何を苦手と思っているのか、について
私の場合、先述の「相手の言っていることと自分の理解を一致させなければならないこと(少なくとも、そうなるように推し量らなければならないところ)」が苦手と感じている
このことは久住さんが詳細にしてくれたのだが、
1.「文法的な事項」:文(相手が話した/書いたものそのもの)の文法的な理解、例えば「誤字や脱字の指摘」等
2.「内容的な事項」:相手が文を発することで、「自分に伝えたい内容」、その文が持っている「趣旨」、「意図」
3.「概念的な事項」:その文に用いられている(含まれている)概念の「意味」についての理解
の三つがあるらしい
久住哲.icon(コメント)
「2. 」と「3. 」の違いは次の点にある:2. は心の中のもの。3. は文に属するもの。
「3. 」と「1. 」の違いはどうなるのか?3. は意味論的であり、1. は統語論的である。
で、コミュニケーションが成立するためにはまず「1.」が共通している必要があるが、この領域にあっては大抵の日本語話者(あくまで、「日本語を話すことができる人(これもまた定義があやふやだが、日本語を母語としている人だけでなく、日本語を学習してコミュニケーションが取れるようになった外国人、なども含むと考えていただきたい。)」)が習得していると考えていいため、この領域ではあんまり「齟齬」は生じにくいかも?
「コミュ障」は少なくとも文法的事項をある程度理解した上でそうなっている、と考えた方が良さそう
コミュニケーションにおける「齟齬」はいわゆる「アンジャッシュ状態」に加えて、「会話がぎこちない状態になっている」ということもありうるとは久住さんの指摘 具体的な事例を元に、「コミュ障」が何を苦手に思っているかということを考える
あっ、その手もあったか塩ミルク.icon
コミュニケーションの難しさについての記事がそのままコミュニケーションの齟齬の実例になっている(だいたい私の方に責はありそう)塩ミルク.icon
久住哲.iconいや、塩ミルクさんの方に責があるわけではないと思いますよ。元はと言えば、私が思想哲学 - Discordでズレたこと言ってたから、みたいにも言えますし。それに齟齬すら起こらない無難なやりとりより、ちょっとくらい齟齬起きたほうが面白いかも 注釈
久住哲.iconが「相手が言ったこと」という表現について1〜4の分類があると述べたが、このうち2と3の違いは曖昧である。