定義は好き勝手にするべきではない
言い換えると、「私の定義」が絶対的なものとして妥当するべきではない、という倫理的主張になる。 だが、これだけではよく分からないので、補足が必要になる。
議論の倫理:議論を真面目にやろうとしたときに、当然守るべき規範の集合。
そもそも規範とは〜
もちろん、ふざけてもいいのだが、ふざけた人にまじめに取り合わねばならないということはない
すなわち、ふざけてしまった場合、「まじめな話」という場が開けない
これは冗談や笑いがあればまじめな話ができないという意味ではない
それでも、真剣な場で冗談を言うと、眉をひそめられることはある
いついかなるときでもまじめな話をしなければならない、ということはおかしいだろう。
まじめな人には、まじめに対応するのが、当然だろうけれど
「定義によって話は変わる」なら、その定義に最も力を入れなければならないだろう。
なぜなら、話がコロコロ変わってしまっては困るからだ。
しかし、そこで、「なので、話が人によってコロコロ変わっていいよね」と思う人もいる。
そこで、「なぜ話および状況認識がコロコロ変わっては困るか」という点を押さえておく必要がある。
これが分かれば、なぜ認識がコロコロ変わっても問題がないのかも分かる。
そして、認識が定義によってコロコロ変わって問題ない人にとって議論とは何か、という問題も出てくる。