存在とその認識についてを読む
第一:存在とはいかなる事態なのか
存在可能である、という事態は、存在者が存在するということと同義である。ただし、われわれの認識が及ぶ範囲の限りにおいては、である。
存在者が存在するという存在分節には我々の認識が不可欠であるってことか
それは直ちに認識の範囲内の在る者、として言及されることとなるからだ。
フィクションでもそれを概念として捉えている者の存在が必然ってことね
たとえば「ユニコーン」という存在者は空想のものであって、実在では無いのだが、その存在自体は可能性として存在する。
フィクションでも認識者に「存在可能性」をみいだされると存在可能ってこと??
ところで、「存在する」という事態は、世界内において初めて可能となる事態であり、「存在可能」という事態は世界内において成立する。さて、世界内において存在可能という事態が成立するのであれば、世界は、存在可能な全ての存在者を包括する。
世界は認識者に縛られないの?存在可能な存在者は無限だが、人の認識は地平があるし、大それた空想は難しそう。
さて、われわれの認識は有限である。われわれの認識は、無限に広がりを持つ世界の全てを捉えることが出来ない。ここでわれわれの認識は、それぞれの世界像、世界に対して有限化され、そして意味を与えられたものを取り結ぶのである。
認識は有限で、認識は意味と存在とを取り結ぶってこと?
世界像とは、単純に言えば、われわれが日常的、通俗的な理解において用いる「世界」と同義である。世界は存在しない、のではなくて、われわれは世界の全てを捉えることが出来ないのである。
世界像をわれわれはそれぞれ持っていて、世界の全ては一人の人の認識可能な範囲ではないってことね。
2.われわれの認識が存在の根拠であるのか-感覚的確信-
われわれの認識にとって見れば、われわれの認識による存在者の確認が、存在の根拠である。認識のうち、最も単純かつ、最初に立ち現れてくる作用が、感覚的確信なのであるが、この感覚的確信において初めて主客の分離が果たされ、ある存在者に対する未分化の刺激と欲望が創出される。
存在者の確認がその存在者の存在の根拠であり、その「ある」という感覚が感覚的確信。あるということ、すなわち存在分節するときに、他の存在との分節ではなく、なぜ認識主体と客体の差異について認識し、二者間で存在分節することが前提されているのか。
感覚的確信は、何らかの存在者から発せられた単純な刺激を受け取り、欲望を発生させる。加えて存在者から発せられた刺激の起源たる対象たる存在者と、その刺激を受け取った存在者たる「我」を分離する。そうすることで初めて、主格が分離されるのであるのである。
刺激を受け取ることで主客分離が成立する必然性はなんだろうか。なぜその色なのかという問いに、カント的に私がそのように認識しているからとするのか、周囲のもの(神がそう決めたから、大人がそう呼んでいたから、青いペンキを過去に被ったから)とするのか。後者の方が素朴だが、哲学的には前者が了解されている気配はある。
さて、「我」では無い存在者から発せられた刺激と、「我」たる存在から発せられた刺激、すなわち欲望は、この時点では分離されていない。この場合創出された「我」の概念とは原始的なものであり、我自身は我を自覚していない。
両存在者の刺激は認識主体である「我」にとって分離されていない。
我は我に無自覚である
なるほどなぁ
この場合、我にとっての我とは、刺激を主体的に感じるもの、としての我でしかない。刺激ごとにその都度取り結ばれる、一時的な、刺激(感覚)の集合としての我である。この場合、確認される存在者とは、刺激、欲望を創出する起源として、その刺激のごとに取り結ばれる対象者として、確認されているのである。端的に言えば、この存在者の確認は意識的な形では持続しない。
「我」は刺激欲望を創出する起源として、刺激の集合として、その刺激ごとに立ち会う対象者として確認されている。
意識的な形では持続しない
しかし、このような原始的な認識たる感覚的確信にあっても、存在者に対する何らかの形での持続は、意識的な形でないにしろ、存在する。
感覚的確信を経て存在者(認識主体)自身に対する自己意識があるってこと?
この時、はじめて我にとって我が、単純な「食欲」という形で成立する。この際、食欲、欲望たる我にとって刺激とは、欲望と同一である(具体的には、空腹=食欲である。)。したがって、我とは欲望であり、刺激であるのだ。
欲望や刺激の束について同一性というか同じタグをつけるには他者の視点の認知が必要なのでは。自己の純粋経験と他者からの伝聞の違い。
欲望や刺激が束になっておらず、その都度作られるものだった時でも、そこには「欲望を向けられるもの(対象)」と「欲望を向けるもの(我)」の関係が成立している、ということです。しかしこの「我」の概念は、以前他の人に指摘されたように、人間の持つ「我」の概念よりかは下位のもの、未熟なもの、としてある「我」です。塩ミルク.icon
"存在論的に未熟"な存在としての「我」かぁ。イメージフル稼働させて読むぜ!
さて、感覚的確信にあっても、それぞれの我におけるそれには差異が存在する。なぜここで差異が生じるか、については詳しくは立ち入らないのだが、この差異は感覚的刺激においては、刺激に対する反射の異なり、として直接的に現れる。刺激をいかなる形で受容するか、という部分において差異がある。
感覚的刺激って受容の仕方を意識的に統御できたっけ、我慢はあるけど。まぁ刺激に対する知覚像の生成は主体的なのかもしれない
さて、ここで示された感覚的確信において感じられたものは未分化である。単純に刺激を受け取るものとしての我、刺激を発し、欲望の対象となる外化された対象が、存在者のうちにあって分離されているのみであって、ここでは「我」という概念も、「対象」という概念も分節化されたものでは無い。
存在者の属性としてその欲望のされ方や知覚のされ方を帯びる。
確信の段階にあって我という概念や「対象」の意味論的概念も分節されていない
今のところ感覚的確信は現象学的還元していないという意味で理解しているかりふぁ.icon
分節化されていないが、混濁した分離がある。この場合、認識が取り結ぶ世界像は、その認識にとって自覚的なものではなくて、感覚的確信によって取り結ばれた刺激・欲望と、それに対する反射の集合、として取り結ばれている。
そうかぁ
3.存在者一般の存在をいかにしてわれわれは認識するか-知的直観-
単なる存在者一般は、普遍的な存在者である。先の感覚的確信において捉えられていた存在者はあくまで個別の、そのたびごとに結ばれる存在者の確認であり、普遍的に存在者が存在する、ということについての確認は未だなされていない。
普遍的概念と個別的確信によって具象化された概念の違いね。
知的直観においてわれわれは、普遍的な存在者の存在を確認する。具体的には、我の存在を我が自覚することがその起源となる。我の存在を我が自覚する、ということは、我、という存在者についての確認を持続するということである。つまり、刺激に対してその度に欲望として取り結ばれていた我、というそれぞれの一時的な現象としてのそれぞれを繋げ、ひとつの一貫した「我」という形として確認するのである。
知覚直観における存在者の同一性と認識主体である「我」の同一性の2つの議論があるはずだ。どのように存在の同一性のうちに統合されてるのかも含めて気になる。
今「我」は欲望し、刺激に対して反応するという形での自我が、その経験の必然性から同一性を見出すのか、なるほど。
自己のうちに湧き上がる欲求を「我」のせいだというふうに原因を帰属させるのは結構高度な事のようにも思える。普通は不快なのは目の前に吸えるお乳がないからという環境に原因を帰属させるか、刺激の急激な変化に適切な知覚と応答ができずに混乱するとか、そんなかんじでは?というイメージがある。読む上ではまぁノイズだが。
"存在論的に未熟"な「我」の同一性が先にあって、「我」が定立するのか。
我が定立されるのであれば、我とは対象の刺激に対して取り結ばれていた欲望であったから、ここで、対象もまた定立される。ここで初めて、確実な形での主客が分離されることとなる。感覚的確信においても主客は分離されていたのではあるが、それはあくまで欲望とその対象、としてのそれであり、自覚的な形でのそれではなかった。ここで、自覚的な形で主客が分離されることとなる。
定立した我による主客分離と感覚的確信における我と対象ね。
この違いをもたらすのは意識的な我の概念の把握か
我と対象が自覚的な形で定立されたのであるから、我はここにおいて初めて自覚的な形で世界像を取り結ぶ。この際、刺激は経験として、欲望に対して分化される。経験とは、我にとって自覚されうる刺激である。経験が自覚的なものとして持続可能となることによって、世界像も持続可能なものとなる。ただし、この場合における世界像とは直観的に感じられるものであって、具体的に言えば感覚的確信において取り結ばれた、自覚的でない瞬間ごとの刺激と反射の集合を、自覚的かつ持続的にしたものに過ぎない。つまり、この場合において世界像は完成していない。
我の世界像を了解するには我を知ることが必然であるってことかも
経験というよりこれは記憶だよな、経験には時間的な推移や状態遷移がある気がするからちょっと解釈が難しい
世界像と記憶の持続可能性(対自的連続性とも言えそう)の保持はあるが、完成ではない
さて、存在者一般の存在の確認とは、具体的に言えば「あるものがある」ことの確認である。というのは、存在者一般における存在の確認とは、その存在者が持続可能であるということを確認するということと、存在者に普遍的に「存在」という属性が付属していることを発見するということである。
知的直観においては、存在者の存在の確認は、我が持続することによって持続される。加えて、ここで我は、存在が普遍的であることを発見する。我とその対象が普遍的に存在するものである、ということを発見するのである。ここで、存在者一般の存在が確認されるのである。
存在者一般の持続可能性の確認は存在者に普遍的に「存在」という属性が付属している事の発見!?!?
普遍的な属性は無意味だろう?どうなんだ
ある人の世界像に了解されていない概念を悟った時に「存在しない」と表現し、ある人の世界像に了解されていて自分は知らなかった存在に転化した現象についてその意味を「あった!(存在した)」と表現することはありそう。
存在者一般は我とその対象がいついかなる場合も存在することを了解することでその存在を確認する
水は蒸発する、たいてい知識で空気中に水分子が保全されていることを知る。
しかしながらここではあくまで、存在者一般が普遍的なものである、ということが論証されたのみであって、その存在者一般のうち、いかなるものが現実界において実在するものであるのか、という判断はなされていない。この状態においてはあくまで存在者一般、すなわち存在しうるものが存在する、ということのみが確認されている。
現実界ってなんだ?世界像が含む存在者一般と虚構でない客観的な現実界の実在の区別ってこと?
いや、存在は空なんだから意味分節も存在分節も空だろう?いや、その存在そのものが生起している本質的な分節があるのだというのか?としたら現実界と表現するだろうか。
端的に言えば、この段階では未だ幻覚、空想、妄想と言ったものと、現実に実在しているものとの区別がなされていないのである。
素朴な凡夫の意味分節は妄念で、菩薩の発見する存在そのものがその個体の本質であるとかあるけど、ここでいう現実の実在ってそのレベルの話なのか物理的というか自然科学の道具立てで解明可能な境位のことなのか。
4.いかにしてわれわれは実在とそれ以外を区別するのか-理性-
理性において、我は単なる存在者一般から実在者を区別する。そのために、対象が、単なる対象から、観察される対象、客観的存在となるのである。観察とは純粋に理性的な行為であり、理性的行為の最も基礎的な作用である。観察することによって初めて実在者と、そうでないものが区別されることとなる。
実在者と存在者の区分は感覚的確信を経た後の理性的観察でわかるのね
観察によって発見された事実、「その存在者が実在するものである、という事態が真である」ということによって、その存在者が実在者であること、単なる存在者一般から区別されていることが証明されるのである。すなわち、実在者である、ということは、その存在者が疑いようのないものである、ということなのである。
実在者は虚構や妄想でない存在者ね、存在分節についてその実在が真であるとは?
一定の性質を伴った物体ないし不定形の物質があるってことだろうか
塩見ニキのノートと対比させて適当にかりふぁの感想を書く noteのロゴ変わってて違和感しかない
第一:存在とはいかなる事態なのか
存在可能とはいかなる事態か
存在可能とは、「現実界に存在するかしないか、に限らず、その存在者がある、という事実がありうる」という事態である。
その存在者が可能性として確認されるのであれば、その存在者は存在する。
感想
現実界についてと存在者の可能性の確認が存在を含意することについての2つの前提があるのかぁ
現実界について懐疑的だから以下読む時ちゃんと覚えておかないと
続き
言い換えれば、存在可能な存在者の全てが世界なのである。
世界像とは、単純に言えば、われわれが日常的、通俗的な理解において用いる「世界」と同義である。
感想
西垣徹が生命情報-社会情報-機械情報について分類していた生命情報より前の情報は情報にならないっていう概念の範囲と一致するなぁ。存在ってのは生命情報なんすよ。\n西垣「通」ですかね
われわれの認識が存在の根拠であるのか-感覚的確信-
それぞれの者同士では、それぞれ感覚的確信のあり方は異なる。
言語には、単一の価値(意味のこと?)はありえない。
十年前と現在の自分とでは、同じ言語-理解の組を受けても表出と受容の間に差異を持つ。
作文や論文を、自分で添削するということは、言語が外化されることで、表出された時と異なる意味を持つことができるようになるから、その効果を持つものなのではないか。
言語とはひとつの、共通理解を可能とする作用である。
言語が行為でないのは、言語が表出する者と受容する者の間で相互に作用するものであるからである。
表出者が持つ言語の意味が外化されることによって、感覚的確信から、理解可能な存在に移行する。そうなることによって言語は、表出された際とは異なる意味を持つに至るのである。
感想
わからないふぁ
言語を外化する、言語を理解するという動作があることは分かったが、結局それらが何をしているのかがわからない。
言語を理解に翻訳したり、理解を言語に翻訳したりする際に感覚的確信が影響するのはわかるが、その影響がどれぐらい必然的なのか、言語が理解に対してどれぐらい本質的なのかがわからないかんじ。