大橋弘さんの自転車のカゴの短歌についてまた考える
ありふれたものについてそのときだけの新しい文体で新しい表現を生み出すのが短歌の面白さじゃないか 自転車のカゴというのはことのほか あの世この世の枯れ葉が入る
「あの世この世の枯れ葉」
新しい表現
もしも「自転車のカゴというのはことのほか枯れ葉が入るものだ」と書かれただけでは詩にならない。これもまた感慨を表そうとしている言葉ではあるが、この言葉では、〈感慨があったという事実〉しか伝わってこない。いっぽう、大橋さんの短歌からは、感慨そのものが伝わってくるようだ。感慨が再現されるということではない。感慨が表現されるということ。(これでは、何かを言ったことにはならないが。)
ちょっと変わった表現
ことのほか、の理由について、この歌の中では説明がつかない。ことのほか、というのは、自転車を前にした詠み手の感慨であると思う。いわば「ことのほかだな〜」という感慨だ。それは呆れも含み、真理を悟ったような感じも含む。
「自転車のカゴには」ではなく「自転車のカゴというのは」
この助詞の選択は、「ことのほか」と相性がいい。この言い方をすることで、自転車のカゴの本質について語っていることになる。だが、内容は、枯れ葉が入るであって、自転車のカゴの機能が話題ではない。これも感慨を表していると思う。「自転車のカゴってぇーのは……ことのほかだな、まったく」といった感慨だ。
過去の感想
自転車のカゴに枯れ葉が沢山入っていて、「多すぎないか?!」と思ったんだとおもう。なぜこんなに多いのか、説明がつかない。この樹だけじゃなく、あの世からも枯れ葉が落ちなければ納得がいかない。……別に、自転車をずっと監視していたわけでないのだから、全ての葉がこの世の葉とは限らない。「そんなわけないじゃん」「じゃあ、あなたはこのカゴをずっと見ていたんですか?そして、このカゴに入る枯れ葉がついていた枝を全て見ていたんですか?」そう反論されて、まだ「そんなわけない」と言えるか。もし、すこしでも言えないかもと思ったら、私たちがいかに原因を極めることなく物事を判断しているかが悟られるだろう