可能性の了解に言語習得は必要か?
野矢は『論考』の考えを援用して次のように考える。私たちの周囲には成立している事実だけがあり、それと並んで可能性の世界があるわけではない。例えば、私の目の前にあるコップは白いが、「もしこのコップが黒かったら……」という可能性を考えることはできる。しかし当然事実として成立しているのは「このコップは白い」ということだけであり、事実だけを眺めている限り、「このコップは黒い」という可能性は出てこない。したがって、可能性を了解するには、事実から離れて、その代替物となる「言語」(像)を用いる必要がある。 ある野矢の本のレビューに、以上の考えに対して疑問を述べているものがあった。曰く、「上の考えによれば可能性を了解をすることが可能なのは言語を操ることができるもの = 人間だけということになるのではないか。しかし、人間以外の動物、例えば猿なども可能性を了解した振る舞いをするように思われる」というもの
※ あるいは言語習得前の赤ちゃんの例も挙げていた気がする
この疑問に野矢はどのように答えるのだろうか?考えられるのは次のようなもの。「可能性を了解するのに必要な言語というのは必ずしも、日本語や英語といった人間が使う高度なものでなくともよい。猿には猿の言語があって、それを用いて彼らは可能性を了解している」、あるいは「猿は可能性を了解しているような振る舞いを見せるが、実際には了解していない」
もしわれわれがいかなる箱庭 = 像も操れないのならば、現物を動かすしかない。そのとき、すべては現実のこととなり、いっさい可能性の領域は開けてこないことになるだろう。たとえばミミズはそうである。ミミズはただ現実にのみ生き、現実の代わりとなる箱庭を作るようなことはしない。それゆえ、ただ現実の状況に反応して現実の行動を起こすだけでしかない。つまり、ミミズには可能性はない。猫などでも、少なくとも我が家の猫なんかはそうなのではないかと私は常々疑っている。(p. 42)