代弁としての「内的評価」
仮にScrapboxに書いた行を評価するレスを書くとしたら、評価の種類はふたつに分かれると思う 内的評価か
外的評価か
上の種類分けは、ある行へのレスポンスとして追記編集を行う仕方に影響を与える。
どのような影響を与えるのか?
内的評価の場合、その行自体に自らのアイコンを書き込んでしまう。
この行為はScrapbox以外の場では起こらない
なお、以下でカント(カント.icon)とマルクス(カール・マルクス.icon)の顔を使用しているが、2人の思想家は今の話に関係がない。
例えば
2月は文学に力を入れるカント.icon
という行があったとき、「自分もそう思う」と思った人が次のように編集する
2月は文学に力を入れるカント.iconカール・マルクス.icon
こうなると「一緒に頑張ろう」とか「あの人も文学を頑張るのか」とか思う
このアイコン書き込みは「2月は文学に力を入れる」という意思表示に対してのある種の"肯定"だが、その肯定の仕方はすこし変わっている。
他者の意思表示に対して、「いいね」と評価するような普通の肯定ではない
外的評価ではない
この方法では、他者の書き込みを自分の意思表示の代弁と見なし、その意思表示に自分も乗っかっている すなわち、あれは、あの行の下に
私も2月は文学に力を入れるカール・マルクス.icon
と書き込む行為の省略形である
すなわち、評価ではなく、同じコミットメントを表明することにすぎない
すぎないが、これがカント.iconにとっては力強い感じられたりする
この内的評価は、「肯定的評価」ではないが、意見の支持の一種ではありそうだ。
外的評価の場合は、別な行で自分の意思表示を行うことになる
例えば、
2月は文学に力を入れるカント.icon
という行があったとき、次のように編集する
2月は文学に力を入れるカント.icon
いいですね。がんばってカール・マルクス.icon
このとき、カール・マルクス.iconはカント.iconとコミットメントを共有しているとはかぎらない。カール・マルクス.icon自身は2月に文学に力を入れないかもしれないが、カント.iconを応援したい気持ちを表明している。
こういった表明は、一般的な肯定評価であるだろう。
あるいは
2月は文学に力を入れるカント.icon
俺もカール・マルクス.icon
これは外見上は外的だが実質的には内的評価だ
「内的評価」という表現は相応しくない
評価はすべて外的評価である
「内的評価」は評価とは違う支持行為である
内的評価は、他者のコミットメントに乗っかるという仕方での支持である
例えば、無定義集という企画が面白いと思い、そこに乗っかることなどがそれだ
これは「肯定」ではあるが、評価とは少しちがう
内的評価のおかしさ
ちなみに、内的否定評価とでも言うべきものがあるとすれば、それは、「勝手に但し書きを書く」という行為に結実する。
例えば、
2月は文学に力を入れるカント.icon
これに対して、次のように編集する
2月は文学に力を入れるカント.icon
ただしドイツ文学だけねカール・マルクス.icon
この行為はおかしい
人の意思表明に対して、勝手に他者が留保を設けることがおかしい 勝手に決めつけるなよカント.icon
「内的否定評価」が成立しがたいということも、「内的肯定評価」が評価ではないという意見を補強するものであると思う
「代弁」を禁じた場合、
以下のようにはならない
よろしくお願いします久住哲.iconあかはなくん.iconカント.iconカール・マルクス.icon
以下のようになる
よろしくお願いします久住哲.icon
よろしくお願いしますあかはなくん.icon
よろしくお願いしますカント.icon
よろしくお願いしますカール・マルクス.icon