人類史が成功史になるか失敗史になるか
中村 人類史が成功史になるか失敗史になるか、とは、随分明快な問いをお立てになったものだと思いますね。
松岡 そのときの一番の問題は、類のサイクルと個のサイクルをどう合わせるか、逆にどうずらすかでしょう。
埴谷 自己悪を最初に反省したのは宗教家ですけれど、サン・バルテルミーの虐殺でプロテスタントが死んでいったとき、ローマ法王は「よくやった」と言って飛び上がったんですね。宗教は最初に存在論的な大反省をしたけれど、たちまち表面の事実に敗けてしまったんですよ。
松岡 宗教もそうですが、科学もあやしいところがありますね。科学はオントロジー(存在学)をガッサンディやポアンカレまではもっていましたが、20世紀半ばで見失ってしまった。
埴谷 アインシュタインの存在論を超える、哲学か文学のまったく新しいアインシュタインが出なければならない。アインシュタインは「自分が死んだら粒子になる」と言ったのですが、われわれは死んだら粒子になるのではなく、自らが考えた何かになると言うべきです。われわれがどういう想像で自己を超えるかということです。
松岡 それは物質の未来を描く運動方程式だけじゃダメになったということに尽きます。情報の未来を記述できる数学が必要なんです。
埴谷 人類史とは人間が無から有をつくれるかどうかを神が試してきた歴史です。人類の傲慢であったとしても、そこまでいかないと人類は人類にならないんじゃないですか。思考は存在から育てられた。しかし思考が未知の新存在をつくるべきですよ。
0932夜 『不合理ゆえに吾信ず』 埴谷雄高 − 松岡正剛の千夜千冊