人間至上主義
概要
簡単に説明すれば「善悪を決めるのは人間」という考え。
→おそらく初出はもっとさかのぼれそうだが、一応は彼のものとしておく。
詳しい方の加筆希望。
具体例「浮気はなぜ悪いか?」
近代(国家の時代)「国(法律?)がそう決めたから」 現代(人間史上主義の時代)「個々人お互いにとって不都合だから」⇔「いや、私は浮気がしたい!」
人間至上主義の弱点は個々人が秤を持つため、対立することである(詳細は後述)。
使われ方
「個人主義」という言葉はだいたい人間至上主義と同じ意味の言葉として使われる。 しかし「個人が主体」という言葉の意味を歴史的に(つまり、何の代わりであるか)を
意識している意味で「人間至上主義」は厳密な分、わかりやすい部分もある。
問題
中世も近代も「善悪の秤(倫理、あるいは道徳)」を人々は共有できた。 神の正義を知りたければ聖典(聖書や仏典)を当たればよかったし、国家の正義は日々のマスメディアの報道を通しても知ることができた 現代はあらゆる規範から「自由」であるからこそ、孤独でもあり妥協が難しい。
「個人の正義」をどうやって共有できるだろうか?
「個人の命は地球より重い」と語るのは現代流である。
では個人のために地球は滅んでもいいのか?
「大切の個人」のために「他の個人」は滅んでもよいのか?
結局は「自分に大切な人だけを優先する」という考えになるのが「理性的個人」ではないのか?
現代で個人は「対話」することで解決を図るが、根本的に同じ価値観を共有できない以上、多くの場合、対話とは妥協を意味する。
宗教のような「大きな物語(秤)」の重要性はここにある。 ともかくも、多くの人に納得と和解する理由を与えてくれるからである。
「こうした価値観に同意せず、身をもって示さない者は皆、いつでもこの国から出ていってもらって構わない。それは全てのドイツ人の自由だ」と述べ、極右主義者の激しい怒りを買っていた。
多くの損がある中、移民を受け入れるという”損”を「他人に対して」説得するのにどんな有効な手段があるだろうか?
それは「個人の正義」を保ったまま行えるだろうか?
ただし、人間至上主義にたどり着くまでの経緯を考えれば、人間至上主義こそが「安全な秤」であるという指摘はもっともでもある。
ただし、個人も暴走しないことはありえない。
人間至上主義を通してハラリが言いたいこと
私達が常識にしている「個人の自由」「理性への信用」は時代の変化によって作られたということ
当然、いずれは人間至上主義が倒れる日も想定しなければいけない。となると「理性への信用」は現代人が信じるほど「普遍的(当たり前)」なものでない。
今まであらゆる「正義の秤」が暴走し、その反省から別の価値観が台頭したように、人間至上主義の終わりは個人の暴走という事件か、「人間至上主義」の価値が損なわれた場合に起こる
価値観の置き換わりは「より良い変化」だったとは言い切れない。今私達がナチズムのような全体主義国家の中で、独裁者に価値観を強要されないのは幸福ではある。では神と国家に支配された中世と近代は常に不幸であったか? どの価値観、正義の秤にも欠点はある。「現代は最良の価値観を持つ」という考えは現代の価値観の弱点を覆い隠してしまう。現代の我々の選択は本当に良いものか?
もし私達が現代の問題に真摯に向き合わなければ、当然現代の価値観は「間違い」を起こし、別の価値観への置き換えが起こるだろう。そして「次の価値観」が安全なのものだとは限らない。
資本主義をマルクスが『資本論』で攻撃し、そのために資本主義は社会福祉政策を取り込んだ。こうしてマルクスの「資本主義は崩壊する」という予想は外れた。好敵手、そして改善を求める声は仕組みを維持する意味で重要である。 人間至上主義の好敵手はなにか? 「他の選択肢はない」とするのなら、人間至上主義は緩やかに老衰するのではないか?
ハラリは民主主義が長生きすることを祈り『ホモ・デウス』が『資本論』と同じように、「外れる予言」であることを願っている……