人間原理
問い
人間の存在は、宇宙を支配する物理法則に加え、無数の極めて低確率の偶然の積み重ねに依存している。多くの偶然の一つでも起こらなかったとすれば、人間が誕生することはなかったかもしれず、まったく異なる形態の生物となっていたかもしれない。 とすれば、人間が存在している惑星は、何らかの偶然が連鎖的に重なった不自然な歴史をたどっていることになる。
そこで人間は次のような問いをたてうる。「なぜよりにもよってこの惑星にはありえないほどの偶然が実現してきたのだろう」
選択効果についての2つの例
たとえば「アンケートに答えるのが好きか」というアンケートを実施して、回答者の95%が「はい」と答えたとする。これは「国民の95%はアンケートに答えるのが好きである」ことを意味しない。「いいえ」を選ぶ人はアンケートへの回答を拒否しているはずだからである。まず理解しておくべきは、「アンケートに回答した人は何%であったか」ということである。もしも無作為に選んだ1000人のうち、アンケートに答えたのが300人だとすれば、アンケートに答えるのが好きなのは30%以下だと推定するべきである。 つまり、回答することを選択した人と回答の選択肢の間に何らかの相関関係があれば、その回答データをいくら集めたところで、回答しない人まで含めた母集団の真の統計結果にはなりえない。
「地球から多数の星を観測して、その見かけの明るさとそこまでの距離を決定した。見かけの明るさと距離がわかると、星の真の明るさが推定できる。その結果、星は地球から遠いほど明るいという興味深い結論を得た」
この結論は間違っている。地球から観測できる星という条件は、その星の見かけの明るさが、ある閾値以上であることを課す。そして、真の明るさが同じ星でも、遠くにあれば見かけ上の明るさは暗くなる。その結果、遠くの星ほど真の明るさが明るくなければそもそも観測できない。
保守的な人間原理
さて、「なぜよりにもよってこの惑星にはありえないほどの偶然が実現してきたのだろう」という問いに戻ろう。
「知的生命が存在している惑星は、数多くの偶然を経験している」という事実を考えてみる。これは決して不思議ではない。「知的生命が存在する」という事象と、「その惑星が数多くの偶然を経験している」という事象は独立とはいえないからだ。「知的生命が存在する」という条件を課すことで、強い選択効果が導かれている。
このように、人間の存在と宇宙の性質の間に成り立つ相関を選択効果で解釈しようとする考え方を「人間原理」と呼ぶ。
別のアプローチ
異なる真空のエネルギー値をもった沢山の「宇宙たち」があったとしよう。
もし真空のエネルギー密度が現在のエネルギー密度より数桁以上大きかったならば、そのような宇宙には銀河、星をはじめとするあらゆる構造が存在し得ない(もちろん生命も)。
これらの異なる宇宙たちの真空のエネルギー密度の「自然な大きさ」は物質のエネルギー密度より120桁大きい。しかし、もし異なる宇宙の種類が10^120以上あったならば、その中のいくつかの宇宙はたまたま小さい真空のエネルギー、すなわちその内部に構造が生まれ得る範囲のエネルギーを持つと考えられる。
そして、銀河や星、生命といった構造はこのような宇宙にのみ生じ得る。これは逆に言えば、もし宇宙に知的生命体が現れて真空のエネルギー密度を測定したならば、彼らは必ず理論の自然な値より120桁程小さい値を観測するということになる。なぜなら、そうでなければ彼ら自身が存在しないからである。
誤解による批判
人間原理はしばしば以下のような誤解にもとづく批判をされる。
人間を中心とした新しい原理ではないか。
いったん人間原理を認めてしまえば、それで全てが説明できてしまうのだから、他の科学的説明を追及することは意味のないことになってしまうのではないか。
過激な人間原理
「人間原理」を次のように用いる人々もいる。「物理定数は、知的生命が存在する条件を満たすような値に決められている」
この場合、省略されている主語は「神」、あるいはまだ知られていない物理法則ということになる。 参考文献
『不自然な宇宙』須藤靖
『マルチバース宇宙論入門』野村泰紀