人間は創造的な生き物
『善悪の彼岸』より。
「一九二 認識の「創造力」」によると、私たちは異様で新しい印象を保持することが不快で不安であり、感覚においても同様である。
感性の「ごく単純な」プロセスにおいても、すでに情動が支配しているのだ。
そのため、例えば読書の際にも風景を見る際にも、私たちの認識は正確かつありのまま見ているわけではない。よって体験の大部分をでっち上げている。
ある出来事を観察するというのは、その出来事を「創造する」者としてでしかない。これらのことはあることを教えている。ずっと昔から、わたしたちは根本的に噓をつくことになれているということだ。もっと高尚で偽善的な言い方をすれば、すなわちもっと耳に入りやすい言い方をすれば、人は自分で思っているよりも芸術家なのだ。
これは自分のアバウトな見方だが、ここはカントへの批判の意味合いも含まれているのかなと思った(ニーチェは本書を通してカントへの批判を繰り返している)。
「二六 キュニコス派の哲学者」では、認識者であるなら、誰かが「人間は飢えと性欲の欲望を備えた肢体を持ち、名誉欲を持つ頭を備えた動物である──飢えと性欲と名誉欲こそ人間の唯一で本物の欲動だ」と主張したなら熱心に細部まで耳を傾けるべきだろうと書かれている。
つまりニーチェによると、人間は邪悪な動物なのではなく、卑しい動物なのだ。
これらは、ドストエフスキー『地下室の手記』の語り手の主張に似ているかもしれない。
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「完全な自叙伝など存在しない」
「二九一 道徳とは」でニーチェは、「人間は噓つきで、不自然で、不透明な動物であり、策略と狡知のために不気味な生き物である」と書いている。
そして人間は自分の魂をなんとか単純化しようとして「疚しくない良心」を発明したので、道徳は魂を楽しめるように発明された長期にわたる細心の欺瞞なのであり、よって一般に考えられているより多くのものが芸術にカテゴライズされるとも書いている。
この部分は自分にはあまり意味が掴めない。
とにかく道徳は人間の卑しい精神のために発明されたものであるということなのかな。
結局、人間は卑しい動物であるがゆえに嘘を創造するとニーチェは考えているんだろうか。
「一六六 噓」では、意味深なことが書かれている。
たしかに人は口で噓をつく。しかしそのときの語り口で、真実を語ってしまうのだ。
また「二六 キュニコス派の哲学者」では、「憤慨した人物ほどに嘘をつく人はいない」とも書いている。