ヴィトゲンシュタインの生涯
少しずつ加筆予定。ボイチャや、テキストなどでお気軽にご利用ください。はじめ.icon
両親の方針で家庭教師により教育を受け、小学校には通わなかった。
1903年(14歳)技術面の教育に重点を置いたリンツの高等実科学校(レアルシューレ)で3年間の教育を受ける。
1906年(17歳)卒業
1907年(18歳)ベルリンのシャルロッテンブルクの工科大学(現ベルリン工科大学)で機械工学を学ぶ(一年間のみ)
1908年(19歳)春 イギリスの高層大気観測所で凪による実験研究に従事。
秋 マンチェスター大学工学部に入学し、航空工学を専攻する。
(この間に、彼の関心は、数学を使ったエンジンやプロペラの設計から数学そのものへ、さらには数学基礎論と論理学へと移っていく。)
<前期>
1911年(22歳)イエナ大学のフレーゲを尋ね、ラッセルの元へ行くように勧められる。
秋 ケンブリッジ大学で、ラッセルと出逢う(ホワイトヘッドとラッセルの共著『プリンピキア・マテマティカ』第一巻発刊の翌年)
ヴィトゲンシュタインは哲学について専門の教育をまったく受けていなかったが、ラッセルは彼の類い稀な才能を認めた。
1912年(23歳)『論理哲学論考』として結実する研究を開始し、従軍中も継続。
1914年(25歳)第一次世界大戦(~1918年)が勃発し、8月7日にヴィトゲンシュタインはオーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵として従軍。
1918年(29歳)第1次大戦中に、『論理哲学論考』の最終原稿を完成。イタリア軍に捕虜になった際にも、背囊(将校が背負うカバン)に、その草稿をひそませていた。
1922年(33歳) 『論理哲学論考』決定版が出版される。完成から4年後のことであった。(前期の終焉)
<挫折期>
「哲学の問題はすべて解けた」と思ったウィトゲンシュタインは、小学校教師として生きることを決断し、教員免許を取得後、ウィーン郊外の山間部の小学校の教師として赴任。僻地の小学校を転々とする。
1922年(33歳)秋 プフベルクの小学校へ転任
1924年(34歳)秋 オッタ―タールの小学校へ転任。この地で『小学生のための辞書』を作成、出版。
生徒たちのために何週間もかかって猫の骨格標本を作って見せるなど、どの任地においても極めて熱心に教育に取り組み、かつ生徒たちからも慕われたようである。
1926年(37歳) 熱心な教師だったが、熱心さが昂じ生徒に体罰事件を起こし、親が抗議する排斥運動にまで発展し、やむなく依願退職する。
1928年(39歳)3月 なかば嫌々ながらワイスマンとファイグルに誘われて、直観主義数学に関するブラウワーの講演を聞きに行く。講演終了後、彼は突如として哲学の問題を長時間にわたって語り始める。この事件が哲学復帰への一つのきっかけとなる。 <後期>
1929年(40歳) 自分の生と『論理哲学論考』の哲学の双方に疑問を抱くようになり、哲学を再開するためにケンブリッジ大学に戻り、ここで初めて学位を取得。『哲学探究』として結実する後期の研究が始まる。
6月『論考』により博士の学位を受ける
9月ウィーン学団が『科学的世界把握・ウィーン学団』を出版し、本格的な思想運動としての旗揚げを開始
『倫理に関する講演』がなされる直前、『論理形式』についてという短い論文を書く。ここで「要素命題の相互独立性」が早くも否定されている。
ケンブリッジに移った後も休暇中はウィーンに滞在することを常としたため
『哲学的考察』ケンブリッジ復帰~1930年春までの草稿
『ウィトゲンシュタインとウィーン楽団』1929年末~1932年7月まで続いた会合のワイスマンによる記録
1930年(41歳) 1月 ケンブリッジで講義開始
『ウィトゲンシュタインの講義〈1〉ケンブリッジ1930‐1932年―ジョン・キングとデズモンド・リーのノートより』
『哲学的文法』1930年夏~1934年までの草稿
1932年(43歳)
『ウィトゲンシュタインの講義―ケンブリッジ1932‐1935年 アリス・アンブローズとマーガレット・マクドナルドのノートより』
1933年(44歳)
『青色本』1933-34年の口述筆記録
1934年(45歳)
『茶色本』1934-35年の口述筆記録
講義を円滑に進めるために、数人の学生に口述を筆記させノートを作成した。そのノートの表紙が青色のものと茶色のものがあったので、通俗的にこう呼ばれている。『茶色本』は明確に後期に属している。
1935年(46歳)
夏 ロシア(当時のソ連)へ旅行。以前からロシアへ移住する計画を持っており、その下見に行ったらしい。
1939年(50歳)ムーアの定年退職に際して、後任としてケンブリッジ大学モラル・フィロソフィー講座の教授に就任
ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことで第二次世界大戦始まる(~1945年)
『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇 ケンブリッジ 1939年』
1946年(57歳) 後期の主著『哲学探究』が完成するが、彼はそれを出版しようとしなかった。 1947年(58歳)ケンブリッジ大学退職
1949年(60歳) 前立腺がんと診断される
1951年(62歳) 4月29日死去。最期の言葉は「すばらしい人生だったと伝えてくれ」だったという。 1953年 弟子たちの手により『哲学探究』が出版される。