ロマン主義における反省概論の補説
内容と形式のどちらが本当の主人であるのかという問いを考えるとき、まっさきに思いつくのはロマン主義的な反省の概念だろう{以下のロマン主義における反省についての見解はW. ベンヤミン「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」に全面的に依拠している}。 本稿においてベンヤミンを引くのはゆえなきことではない。どちらもロマン主義的自己について考えていただけでなく、ベンヤミンは実際にジンメルにたどり着く一歩手前まで行った。その邂逅はアドルノによる余計な手紙によって妨げられたのではあるが、であればこそいま改めて両者を接続してみる意義もあろう。本節の目的は、ジンメルを注釈としてベンヤミンの反省論を理解すること、あるいはその逆である。 ロマン主義以前に、フィヒテは反省を次のように定義した。「それを介して形式が、この形式それ自身を内容とするような形式となり、かくして自己自身のうちへ還帰するところの自由の運動が、反省と呼ばれる」(「知識学の概念、あるいは、いわゆる哲学の概念について」)。この「形式それ自身を内容とするような形式」を無限に生み出す過程は、逆から見れば「それ自身の形式をも含んだ内容」を無限に取り込む過程でもあるとも考えられる。 このことをフィヒテは「『わたしがわたしを意識する』と君は言う」という発言についての考えにおいて示した。この発言において「君=彼」は〈君=彼自身〉を内容として持った発言を行える(形式化する)のであるから〈君〉に対して客体の位置に立っている。しかし〈君〉がその発言を理解できるということは「君」が一度客体化した内容以上のものを客体として持っているということを意味する。しかしその〈君〉の意識こそが「君」が客体化したものであるが、それを理解する〈君〉は……(フィヒテは言及していないが、ここで「君」と〈君〉の無限進行を理解できる〈わたし〉について、あるいは彼が「君=〈わたし〉が君=〈わたし〉を思惟する」と言い、〈わたし〉が「〈わたし〉が〈わたし〉を思惟する、と君は言った」と答えるような場合も考えてみるべきだろう)。「したがってわれわれは、いずれの意識に対しても、それを客体とする新しい意識を無限に必要とするであろう。こうした無限のうちで意識はその場所を失ってしまう。それゆえ、われわれは決して現実の意識を容認しうるに至らないであろう」(『知識学の新叙述の試み』)。
このフィヒテの混乱は、ジンメルによる次の整理によってより明確となる。
限界には二つの規定がある。ひとつは、限界の存続はわれわれに与えられた世界的な地位と結びついているがゆえに限界は絶対的なものであるという規定であり、もう一つは、およそ限界というものは原理的には変え、乗り超え、包み込むことができるがゆえにいかなる限界も絶対的なものではないという規定である。(『生』: 11)
フィヒテが恐れたのはこのふたつめの規定であった。彼の〈わたし〉ははじめ限界されたものでありその限界は絶対的なものであるはずだった。しかし「わたしがわたしを意識する」と言った瞬間、その限界は乗り超えられてしまう。そのとき〈わたし〉はどこにいるのだろうか。ジンメルの続く部分は、フィヒテの不安をこれ以上ないほどによく表している。
ところで、われわれの生は、知と無知とのあいだのこのような限界に位置するということだけによって、われわれが知っている通りのものとなるのではない。もし限界がそのつど最後的なものであるならば、つまり、生が前進してゆくにつれて――全体としてであれ、またいかなるここの企てに関してであれ――より不確実なものがより確実なものとはならず、確実だと思われているものがより疑わしいものとならないならば、やはりわれわれの生はまったくちがったものとなる。(『生』: 11-2)
それゆえフィヒテは、「ちがったもの」としての生を拒否するために、限界のひとつめの規定へと立ち返った。すなわち無限の反省によって影響されないような〈わたし〉を求め、そして「発見」した。それが思惟の直接的意識である。「わたしの思惟の意識は、わたしの思惟にとってかりにも偶然的なものであったり、後になってはじめて思惟に附加されたものであったり、思惟と結び付けられたものであったりするものではなくて、わたしの思惟から引き離すことのできないものである」。本稿の言葉で言い換えるならば、思惟を形式に、意識を内容に置き換えることができる。ここで行われているのはすなわち内容と形式との直接的な合致をもたらす直観による総合である。この「発見」がいかに疑わしいものであるかは前節の内容から察せられるだろう。
それに対してロマン主義者たちは、フィヒテが無限な進行とみなした空虚さの中に、無限の連関の充溢を見出すことによってフィヒテの恐怖を克服しえた。
しかしそう考えるとしても、無限の反省過程の果てに内容は形式に含まれるのである。形式を持たない無限の内容は、はじめの単なる思惟と同じように、社会的な現実性を持つことができない。
ロマン主義的な〈わたし〉は、反省する〈わたし〉と反省される〈わたし〉とを二重化し、無限の反省によって絶対者に到達しようと欲した。ここで注意すべきことは、その無限の反省は徹底して内容=主観の問題でありながら、そこに反省という形式、そして徹底して形式的な反省が繰り返される自己目的的な過程を見出すことが可能であるということである。言い換えれば、ロマン主義的な自己は確かに徹底して内省的=内容的ではあるが、自己と自己の間での相互作用=形式化を行うことによって〈社会をなして〉いるのである。