リベラル・アーツ
リベラル・アーツとは何か
教養は英語ではリベラルアーツliberal artsと呼ばれます(日本語では「自由七科」)。この語が使われてきた大学教育の歴史を遡ると、もとは専門に分化した過程に先立ち、まず習得すべき七教科(文法、論理学、修辞学、算術、幾何学、天文学、音楽)のことを指していました。リベラル liberalという語に「自由にする」という意味がある通り、多岐にわたるこれらの科目は、本来学ぶことで学生を自由に解き放つという意図を持っています。 なお、ここで言う「自由」は注意が必要である。「真理が我らを自由にする」という言葉は国会図書館もかかげ、好んで利用している。 前後の引用 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
もちろん西洋でもこの考えはジョジョに薄れ、神学や聖書の知識はさほど尊重されない。
とはいえ、根っこには宗教思想があったのは気になる部分ではある。e.g. 哲学は神学の婢 大学自体、ほぼ神学校として始まった。それが神学以外を学ぶ場になっていったのではあるが、それでもこの「教養」には多くの場合、宗教関連が潜んでいる。 たとえば大学の一般教養で聖書学に遭遇した体験を聖書学者バート・D・アーマンは自著で振り返っている。 では自由になるとはどういうことか?
専門分野を学ぶとはその世界を深く掘り下げるということです。しかしそのような学び方の欠点をあえて挙げれば、視野狭窄になってしまいがちということがあります。理論的な分野、あるいは社会に直結した実際的な分野、どの道に進むにせよ、本当に高みを目指すのなら、その狭さを打ち破って新しい発想を持たねばなりません。そのとき、狭くなりがちな個人の思考に自由な一陣の風を送ってくれるのがリベラルアーツ、すなわち教養なのです。つまり本来教養とは、けっして書斎で貯め込んだ知識のことではなく、個人の専門分野と無関係のものでもなく、それによって個人に多角的な発想と見識を与え、その仕事や学び、ひいてはその人の生そのものを生き生きさせる力のことを指しています。また、個人がある専門をきわめようと追求するにあたり助けとなるという意味で、実用性の対極どころか、まさに実用的にほかならないといえるでしょう。
『ここから始めるリベラルアーツ』大辻都著
学際的とは
近代以降、日本の教育制度ではいわゆる文系か理系かという線引きが常識になってきた。しかし、学問上のそのような線引きはもともと絶対的なものではなく、最近ではさまざまな学問ジャンルにまたがって考えたほうがふさわしい問題の存在や、それらを総合的に視野に入れる必要性が言われるようになってきている。
学際的とは、このような領域横断的な捉え方のことであり、教養の原義とも通じている。
その時期は、いずれの学問も拡張発展した時期で、よく「学際性」の重要性が叫ばれた時期でもあった。だから、既成の学問の枠組みに縛られずに、自由に柔軟に研究をしたいという考えの人がいたことも理解できる。ただ、学際性といっても、最初から学際領域に飛び出すのは難しい。まず、足場となる学問があって、そこから越境的に学際領域に踏み出していく手順を踏むべきだろう。アバンギャルドと言っても、スタンダードを知らなければ、意図的な前衛にはなれない。自分自身が前衛になるつもりはないが、逸脱するには、まず確実な帰属領域を踏み固めておくべきだと当時から考えていたし、それはいまも変わらない。
日本のリベラル・アーツ教育の問題点
日本と欧米で教育システムが違っても、「それは文化の違いなのだから仕方ないではないか」という意見もある。しかし、経済学や心理学を文系、文学部の中に心理学科があるというようなことを続けていていいのだろうか? 現在、世界の高等教育は、共通化、統合化が進んでいる。これは、グローバル化による影響で、高等教育においてもグローバルスタンダード(世界基準)を決めないと、何よりも人材の評価ができなくなるからだ。
グローバル化が始まる前まで、教育は、各国が独自で国民に提供するものだった。しかし、グローバル化した今の世界では、各国が独自で教育をやり、そのプログラムに沿って学位を認定していては、そこで育つ人材には、当然、バラツキが出てしまう。そうすると、最も困るのは企業である。
(大学教育における)リベラルアーツとは、ひと言で言えば、西洋世界の学術・学問の基礎である。欧米の高等教育では、このリベラルアーツがすべてのアート(ヒューマニティーズ)とサイエンスの「入り口」と考えられており、これらの科目を履修した後にメジャー(専攻)を決めるシステムになっている。ところが、日本では大学入学以前に志望学部(専攻)を決めて、入学試験を受けるかたちになっている。これでは、あべこべだ。 リベラルアーツをより正確に日本語にすれば、「教養学」より、「基礎学問」のほうが最適ではなかろうか? もし、今後、日本の大学が本当にグローバル化したいなら、学問体系を欧米式に整え直すこと、本格的なリベラルアーツ教育を導入すること、そのうえで徹底して世界から留学生を集めることが必要だろう。もちろん、日本の大学教育のいいとろは徹底して残すことも大事だ。
アメリカには数多くのリベラルアーツカレッジがあるが、そこには世界各国から留学生が大勢やって来ている。そうして、必然的にインターナショナルコミュニティが形成されている。
このインターナショナルコミュニティの中でもまれると、誰もが強く母国を意識するようになる。また、自分たちの社会、自分たちの文化とは何かと、あらためて考えるようになる。つまり、学生たちは、リベラルアーツ教育を通して自身のアイデンティティを確立していくのだ。
しかし残念ながら、ほとんどの日本の大学では、留学生はいてもその数が圧倒的に少ない。だから、インターナショナルコミュニティと呼べるほどのコミュニティは形成されない。その結果、いくら国際学部、国際教養学部といっても、その中で日本人としてのアイデンティティは形成されない。 (上)の記事におけるポイントは、欧米の学問体系は大きく2つに分かれていること。ひとつは「アート、art」で、もうひとつは「サイエンス、science」である。アートが日本でいう「文系」で、サイエンスが「理系」と考えてもいいが、その本質はまったく違う。
なぜなら、キリスト教世界に生きている欧米人にとって、アートは「人間がつくったもの」のことを指し、その科目がアートだからだ。美術、文学、音楽はもちろん、歴史、哲学もアートだ。
では、サイエンスは何かというと、「神がつくった世界=自然(ネイチャー)」を研究する科目だ。このうち、化学や物理学を自然科学といい、経済学や心理学などを社会科学という。
ところが、日本では、各学科はこのような体系で分類されていない。明治期以来、輸入されてきた学科が、文系、理系の違いを深く考えずに、継ぎはぎにされて存在するだけである。だから「文学部心理学科」のような欧米の伝統的な学問体系に基づいたらありえないことが、日本では起こる。
リベラルアーツは、一言で言うと、こうした欧米の学問体系の「基礎」「入口」である。ということは、日本では、本当の意味でのリベラルアーツ教育は存在しないことになる。
アメリカのリベラルアーツカレッジで、現在でも重要だと考えられているのは、ローマ時代の末期に成立したという「セブンリベラルアーツ」(自由7科)だ(上記参照)。
ローマ時代には、この「自由7科」の上に「哲学」(Philosophy)があり、さらにその上に「神学」(Theology)があるという学問体系になっていたという。その後、中世のヨーロッパで大学が誕生した際、この「自由7科」は、学問の科目として公式に定められ、その伝統を今もアメリカのリベラルアーツカレッジは守っているというわけだ。
日本では、大学入学以前に、文学部なら文学部、工学部なら工学部と、あらかじめ専攻を決めなければ受験できないシステムになっている。そうして入学した後、学士課程の前半で教養教育を受ける。そして3年生からは、学部ごとの専攻科目に入る。
これは、一見するとアメリカのリベラルアーツ教育のプロセスと同じだが、大学入学以前に専攻が決められている点で、大きく異なる。これは、学生にとって不幸なことではないだろうか?
日本の場合、先に専攻ありきだから、教養課程は高校時代の勉強の延長にすぎなくなる。しかも、そこでの成績は成績にほとんど影響しない。これでは、一般教養は形骸化してしまう。
本来なら、アメリカのようにまずリベラルアーツ(学問の入り口)教育を受け、その中で自分の専攻を決めるほうが自然だろう。
最近は、日本でもリベラルアーツがブームになっている。日本のリベラルアーツカレッジの代表は国際基督教大学(ICU)だが、ここ10年ほどのうちで、秋田に国際教養大学、大分に立命館アジア太平洋大学、早稲田大学に国際教養学部などが次々に誕生し、どこもリベラルアーツ教育を標榜するようになった。
これらの大学では、1年間の海外留学が必須であったり、授業が英語で行われていたりする。しかし、やはりアメリカのリベラルアーツカレッジと違うのは、大学院進学が前提になっていないことだ。
日本では、就職問題もあって、大学院進学を前提として大学に進学する学生は圧倒的に少ない。しかしアメリカでは、リベラルアーツカレッジの卒業生は、たいてい大学院進学を目指す。もちろん就職する学生も多いが、いったん社会に出た後でも大学院に行くことは、アメリカでは当たり前になっている。
つまり、アメリカの学歴社会においては、大学院卒(つまりマスター修得)の価値が高いので、より、リベラルアーツ教育が重視されるのだ。
(欧米の)リベラルアーツカレッジがいいのは、なによりも少人数で、学生同士、教職員と学生、また親同士もみな親しくつき合え、その中で、子どもたちが育っていくことだろう。たいていのリベラルアーツカレッジでは、学生と教師の比率が20対1以下、中には5対1というところもある。日本のようなマンモス授業は皆無だ。
また、学生たちは、前記したようにオンキャンパスで暮らすので、共同生活の中で社会秩序や規律も学ぶ。
当時のことを思い出して、娘に何がよかったかと聞くと、「やはり、いい友達が世界中にできたこと。それぞれの文化の違いを知って、世界と日本がよりよくわかったこと」と言う。
祖国を離れ、多くの外国人の中で暮らす。これこそが、祖国をいちばん知る方法だ。そうして初めて、日本という国と日本人が何なのか、客観的に見ることができる。国内にいると、すべての事象にバイアスがかかり、教育はもちろん、報道、社会の雰囲気などに支配され、日本という国と日本人について考えることを忘れてしまう。
現在、世界の多くの大学は、世界中から留学生を集めるため、世界各地で説明会を開いている。また、卒業生やその父兄との懇親会も積極的に開いている。特に、アメリカの大学は、世界がグローバル化する以前から、こうした活動に積極的だ。
現在、アメリカのどの大学でも、日本からの留学生は、以前に比べると圧倒的に減っている。最近、ハーバードなどのアイビーでは回復ぎみだというが、リベラルアーツカレッジは日本では知名度が低いこともあり、減る一方のようだ。
この状況を考えると、日本の大学は一刻も早くグローバル化してほしいと私は思う。若者たちが内向きになり、世界に出て行かないのなら、せめて国内をグローバル化するしかない。そうしないと、日本は限りなく国力を落としていくだけになる。
参考文献