ラカンの生涯
少しずつ加筆予定はじめ.icon
ジャック=マリー=エミール・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901年4月13日 - 1981年9月9日) 1901年 カトリックのブルジョワ階級の家に生まれる。
1926年(25歳)アンリ・クロード教授のもとで精神神経学を学ぶ。
1928年(27歳) ラカンはパリ警察庁に入庁し、精神監察医ガエタン・ドゥ・クレランボー(クレランボーは後に鏡の前で拳銃自殺)のもとで学ぶ。ここで精神病者の犯罪に親しく触れることとなり、犯罪心理学の研究を深めてゆく。師クレランボーの自殺を契機に、徐々に、犯罪心理学のみならず、フロイトの精神分析学に傾倒していった。 1932年(31歳)パラノイア女性エメを描いた学位論文『人格との関係から見たパラノイア性精神病』(症例エメ)を発表し、博士号を取得。
1936年(35歳)マリエンバードでの国際精神分析協会(IPA)総会にて鏡像段階論を発表。原稿は紛失。『現実原則を越えて』
1951年(50歳) セミネール(フロイトの症例研究)の開始
1953年(52歳)1月 パリ精神分析学会会長に選ばれる。
しかし、会長就任後、サシャ・ナシュトとの間に亀裂が生じ、同協会は内紛状態となる。結局、会長就任からたった5カ月で不信任案が可決されてしまい、ラカンは会長職を辞任する。この騒動で、パリ精神分析学会は分裂した。ラカンは、ダニエル・ラガーシュらとともに、「フランス精神分析学会(SFP)」を新しく立ち上げるに至った。 セミネール1『フロイトの技法論』(1953-1954)
1954年(53歳)
セミネール2『フロイト理論と精神分析技法における自我』 (1954-1955)
1955年(54歳)
『『盗まれた手紙』についてのセミネール』
1958年(57歳)
『ジッドの青春あるいは文字と欲求』4月の雑誌掲載の論文
『ファルスの意味作用』5月9日講演の原稿
『治療の指導とその能力の諸原則』7月10日~13日 ロワイョーモン討議の報告
『女性の性欲についての会議にむける教示的意見』
1959年(58歳)
『アーネスト・ジョーンズの思い出に、その象徴体系の理論について』1月~3月
1960年(59歳)
『ダニエル・ラガーシュの報告「精神分析と人格の構造」についての考察』
9月『フロイトの無意識における主体の壊乱と欲求の弁証法』
セミネール8『転移』11月16日~
1963年(62歳)IPA総会、ストックホルム大会でフランス協会から除名される。
1セッションの時間を短くする「短時間セッション」による訓練分析がIPA本部から問題とされたのが原因。
4月『カントとサド』
1964年(63歳)自ら「パリ・フロイト派」を立ち上げた。
セミネール11『精神分析の四基本概念』1月15日~
1966年(65歳)
『アーネスト・ジョーンズの思い出に、その象徴体系の理論について』内『時期遅れの音綴表で』
1973年(72歳)
『テレヴィジオン』
1980年(79歳)「パリ・フロイト派」解散
1981年(80歳)9月9日にモルヒネを投与されて亡くなった。
ラカンの最後の言葉は、「私は強情だが・・・消えるよ。」だった。