ミシェル・ウェルベック『服従』読書メモ
フランスで政変が起こり、イスラーム政党が極右政党に勝ち、第一党にのぼりつめる。
主人公は大統領選がW杯の決勝の次に面白いテレビ番組と言うが、政変により社会が変わっていく物語自体が面白く感じる。(現実的にあり得ない事態だとは思うが、そういう捉え方をしてもしょうがないと思うし、ウェルベックが重視してるのはそういうところではないだろう)
女の子とのセックスがすき。政治にはそこまで興味がなく、積極的に関わることを避けている。
極右政党に政権をとられたくない結果、社会党がイスラーム政党と連合を組み、第一党を譲る形になる皮肉。
イスラーム政党が一番重視するのが経済でなく教育。主人公の職場である教育現場にも変化がおきる。
フランスの政治的駆け引きは長い間右と左の対立のみを軸にしていた。その図式から抜け出すのは不可能だった。
彼女が家に泊まったときの朝(絶対彼女より先に起きてしまう)の描写が絶妙にうまい
主人公は無神論者である。しかし、彼の無神論は絶対的な確信があるわけでもない。僕ら日本人が特定の宗教を熱心に信仰しないことと同じようなものだ。ここは物語の重要なポイントになる。
ウェルベックの主人公は毎回セックスが大好きでセックスに人生の価値を置いてる。 だけど、女が(主人公の意志と関係なく)だいたい離れていく
イスラム政権発足後、ユダヤ人の彼女はイスラエルへ
ロマネスクの話「一体主義」
個々人の審判が行われず、一つの全体となって楽園へと歩いていく。
個人という概念がロマネスク時代の人間にははっきりと理解されていなかった。物語とあんま関係ないけど興味深かったのでメモした
イスラム文化流入によるフランス社会の変化
風紀、教育、一夫多妻
犯罪は減る
失業率が減る→女性が労働市場から消える(家族手当の引き上げ)
メディアは失語症になる
フランスという民主主義の崩壊
(民主主義は一応存在してるという感覚を残しているだけ)
資本と仕事の分離廃止
家族経営、労働者が共同経営者として活動する。
イスラム主義との共存可能性
職人や個人事業
家族の繋がりは愛に基づくのではなく、知性や技術、財産の相続に基づかねばならない。
自死に近づいているという気がしていた。絶望や、特別な悲しみを抱えているわけではなかったが、「死に抵抗する機能の総体」がゆっくり崩壊していると感じられたのだ。
主人公の人生観
自分のために生きることができなかったが、他の誰のためにも生きてきたわけでもない。
人間に興味を持ってない。
しかし人間に似通ってるために逃げ出したくなる。
女性に頼る。
女性は人類ではあるが少々異なるタイプの人間性を象徴するが故に、人生にある種のエキゾチズムの香りを与える。
男女の差異が平板化することにより、女性はかつてほどエキゾチズムをもたらさなくなった。
ユイスマンスも同じ道を辿ったが、最終的に「神性」というラディカルなエキゾチズムを選んだ。
自立性くそくらえ
知的・社会的野心だけは失っていない
政権交代後にソルボンヌ大学の学長となったルディジェがフランソワを復職へ誘う。それはイスラーム教への改宗を伴う。
教職をとらないかと請われ、自分が人に望まれているという実感
自分が一種のアウラを享受している
自分が求めているものは午後4時に煙草一箱とアルコールの瓶を手に、寝転がって本を読んだりすることだけだった。→この生活を続ければ自分が死ぬのはわかっていて、孤独のうちに死ぬだろう。
ぼくはすぐに不幸でひとりぼっちで死にたいと思っているのか?よく考えれば、そうでもない。
(教職に入るにはイスラムに改宗する必要がある。主人公は無神論者)
神を追い払うために、人間を神の代わりに据えようとした。
人間中心主義→主人公は人間中心主義ではないので、改宗は可能だ。
多くの人々はふだん形而上学的な問題について考えない。
20世紀→人間中心主義のハードなヴァージョンとソフトなヴァージョンの対立
宗教への回帰
ヨーロッパの自殺
『O嬢の物語』にあるのは服従。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前に力を持って表明されたことがなかった。
女性が男性に完全に服従することと、人間が神に服従することの間には関係がある。(イスラム)
イスラムは世界を受け入れた「あるがまま」神による創世は完全。コーラン、つまり神への服従
神について考える→怖れ
ユイスマンス→顎の癌
ユイスマンスの宗教回帰。主人公と重なる。
ユイスマンスは形而上学的な疑問について全く触れていない。彼は全く気がついていなかった。
ノスタルジーは美的な感情とは何の関係も持たず、幸福な思い出と結びつかなくても、ぼくたちは自分が「生きた」その場所を懐かしく感じるのだ、そこで幸せだったかどうかは関係ない、過去は常に美しく、未来も同様なのだ。ただ現在だけが人を傷つけ、過去と未来、平和に満ちた幸福の無限の二つの時間に挟まれて、苦悩の腫れ物のように常に自分につきまとい、ぼくたちはそれと共に歩くのだった。ちょっと好きな文章
イスラムの創造主の目的は自然淘汰を通して現れる。ただ一部の個体だけが自らの種を残し、次の世代を生むことができる。哺乳類の場合、雌が懐胎している時間、そして、雄のほとんど無限の繁殖能力を考慮すると、選択の圧力は何よりまず雄の方にかかってくる。
キリスト教の神性→過ち→人間中心主義や人権へ導いた。
ただひとつの宗教だけが、個人個人の間に完璧な関係を作れる。→神というひとつの点により個人が結ばれていく。
カトリックは曖昧になり、同性愛や女性の社会進出を厳格に否定できなくなった。
ユイスマンスを完全に理解。
ユイスマンスは実在論的な不安には無関心。
ユイスマンスは自分の死には無関心で、本当の関心事、心配事は、身体的苦悩から逃れられるかどうか、ということであった。
ユイスマンスの「放蕩」や「宴」に気を取られすぎてはいけない。スキャンダル、ブルジョワにショックを与える、有名になる階段をのぼる必要があった。
ユイスマンスの唯一本当の主題はブルジョワの幸福。実直な家庭料理。
家庭?
主人公は、生涯の友、拠り所であるユイスマンスとの決別をする。
イスラムへの改宗。
最後まで彼は、他人の意見を傾聴しつつ決断ははっきりとした意思表明といった感じでなく、流されるように従っている。
この小説には近代以降ヨーロッパの規範となってきた人間中心主義への疑義が含まれている。
カントが「モダニズムは内部から批判する」と言っていたが、自己破壊的な批判の繰り返しによる疲弊により人間中心主義への行き詰まりが起きていることを作者は指摘したいのかもしれない。(ウェルベック自身そこまで積極的なキャラでもなさそうだけど) 人間中心主義の後に取って代わるものがイスラム教(超越的なもの(神)への服従システム)であるとは思えないが、宗教回帰への流れはあり得るかしら。昨今の民衆の容易な流され方を見ると、微妙に現実味のある感じがして、それがこの小説の面白さや不気味さを醸しだしてると思う。
ダグラス・マレーの『西洋の自死』も併せて読むと面白そうだ。