プラグマティズム読書会で考えたこと(はじめ)
2022/3/10木の回
「有用性」という言葉を捉える難しさ
個人と集団の有用性の対立
短期と長期の有用性の対立
有用性が何かは個人によるのでは
物理的なものであれば有用性もある程度普遍性を獲得できるのではないか
椅子の有用性ならば座れるということ、快適な座り心地など
この有用性は慣習や教育により先取りされているのではないか
非常時には椅子が「窓ガラスを割る」という有用性を持つ場合がある
この時にはそれはもう既に椅子ではなくハンマーなのではないか
プラグマティズムでは「固定した観念」をどう考えるか
プラグマティズムは反プラトニズムなので固定した観念を持たない?
その場合、「固定した観念を持たない」という固定性を持ってしまうのではないか
プラグマティストの中には「固定した観念」を持つことを認める人もいる(ジェイムズなど)
宗教を信じる有用性があればそれでもいい
柔らかい考えと硬い考え
ある一つのことを信じている方が「柔らかい考え」だというのは興味深い(普通は逆ではないか)
「自分は有用性でやっていくんだ」という固定化した観念があったとしたらどう考えるべきだろうか
有用性は物理的領域と観念的領域では分けて考えなければならない
製作の領域(職人が提灯をつくるような)、科学の方法論等の領域、個人の考え方や信念などの観念的な領域(右へ行くほど抽象度が上がる)
物理的な領域では有用性が有効に論じられるが、観念的領域においてはプラグマティズムは難しくなるだろう
物理的な領域では、何が有用でそうでないかがはっきりとしている。提灯に紙を貼り付けることができれば有用で、できなければ有用でない。
つまり、物理的な領域においては現実からのフィードバック(正誤)がはっきりとするからである
だが、物理的な領域における有用性を求めることなど、人類の有史以来ずっとやってきていることで、わざわざプラグマティズムに指摘されるまでもないのではないか
製作において有用性を求めない場合も観念的に考えることは可能である。だが、現実的にはそのような人間はあまり考えづらい。自分が関わる物事について、わずかでも良くしようと考えない人間はいないように思われる。これは人間の本性に備わっていることなのではないか。このことを古代の哲学者は「善のイデアを求める」というようなことで表現してきたのではないか。そうなると有用性は善のイデアの言い換えなのではないか
物理的な領域においては、よりよい方法や道具を選ぶことが可能であるが、観念の領域においては、よりよい考え方を選ぶということはほぼ不可能に近い。考え方はその人の生まれ持ったものと密接にかかわっているからである。考え方は、選ぶというよりは引き受けるに近い。その考え方が、利益をもたらそうと不利益をもたらそうと引き受けていくしかないのである。こちらの考え方が有用だから、こちらを選ぼうというように道具を選ぶようにはいかない。
はじめ.icon 読ませて頂きますた。一つあるのは、数学は確かに観念的領域ではあるのですが、正誤が問えるので、例外的になると思っています。自分の話の観念的領域の難しさのポイントは、正誤を問いづらいという点にもあるのです。ここからは久住さんのお話とは関係なく、派生した話になりますが、それでは数学が物理的領域や科学の方法論のような領域と同じになるかというと、またそことの違いもあるなと考えていました。物理的領域などにおいては、正誤の間に中間層がグラデーション状に存在しているんですね。以前よりも有用性が高まるというのは言えるんだけど、100%の正ということはありえず、いつも発展途上なんです。一方、数学の場合は発展途上ということは基本的にあり得ず正か誤があるだけになる。さらに言うと、数学の場合は、数学そのものの世界を考えるか、そことの人間との関わりを考えるかというのも分けて考える必要があります。数学そのものの世界を考えるならば、そこには正しかなく誤がないんです。そこで誤が生じるのは、人間が単に間違えるというだけで、数学そのものとは関係がないんです。数学者の証明などは発展途上ということもありえますが、これも人間が発展途上なだけで、数学の世界が発展途上なわけではない。(この辺は数学をどう考えるかにもよるのですが。イデア的に考えるか構成的なものとして考えるか。)そうなると、数学をプラグマティズム的に考えるとするならば、「数学を人間が習得する場面(数学と人との関わり)」ということになるだろうと考えていました。そうなると、プラグマティズムとイデア論との対比で、プラグマティズムは人が関わる場面において有効なのかなと思いました。逆にイデア論は人が関わらない世界を考えているのかなと。
今のところ応答できませんが、いつか「実在が進化する」という古典的プラグマティズムの観点を紹介できたらなと思います久住哲.icon
ふむふむ。興味深そう。もしかしたら昨日(2022/3/13)の道元読書会で考えた「悟りの進化」とも関係しているかも。はじめ.icon
確固たる信念や哲学を持っている方が実践において有効に働くことが多いということをどう考えるか
例えばスポーツにおいても確固たる哲学を持っているチームの方が強い
この場合は「プラグマティズムは必要ない」という話が出た
ここからプラグマティズムが必要な時とそうでない時があるという話に
だが思想の場合はそのように使ったり使わなかったり都合よくできるものではない
ここからプラグマティズムは思想ではないのではないかという話に
自分の思想を修正する役割であったり、議論を終了させる役割があるなど「アンチテーゼ」としての役割があるのではないか(西田幾多郎もそう指摘していた)
文字通り「道具」のような捉え方であろう
これは一つの有効な解釈であると思われる
だが、道具のように捉えるのであれば、反プラト二ズムや反デカルト主義と言ってしまうと、思想と並列になってしまうのでまずいのではないか
プラグマティズムは、プラトニズムやデカルト主義が上手く働くときにはそれを採用し、上手く働かないときにはそれを採用しないというようなあり方であるべきではないのか
だが、この場合はやはり日和見主義的になってしまい、実践ではうまく機能できないだろう
やはり信念や思想という領域には採用するしないというような態度は馴染まないのだろう。自分の中から湧き出るようなそれを選ばざるをえないというような領域だろう
高校サッカーにおける例を考える必要がある。青森山田と静岡学園は両方ともチームの哲学を持っている。山田は徹底的な有用性に基づいた哲学である。ここでいう有用性とは勝利のことである。つまり、これを勝利至上主義と言う。勝利から逆算をしてサッカーを構築していく。一方、静岡学園の哲学は有用性に基づいていない。つまり、勝利から逆算してサッカーを選んでいるわけではない。それでは何を基準にしているかと言えば、一言で言えば、井田勝通(シズガクスタイルの創始者)の男の浪漫とも言うべきものであろう。これはここまでの議論で言う「気質」や「採用するというよりは引き受ける」というようなものに対応している。これは何もサッカーに限った話ではなく、人生においては有用性ではないレベルで決められる領域は多分に存在するということである。そしてそのような、その人間の深い部分から出てくるものの方が実践では機能するということもままある。だがこれは結果論であって、実践で機能するからその考えを採用するという態度ではこの領域には辿りつけないのである。
だが、こういう言い方もできるしれない。それは「男の浪漫」という有用性に叶っているのだと。
反デカルト主義について
可謬主義というのがその軸になりそうだ
可謬主義というのは間違いを許容する、いやむしろ間違うことでしか高みには登れないというような考えだろうか
一方、デカルトは明晰判明で確実な知識だけを積み重ねていくため、そこには間違いが入り込めない。この点が、反デカルト主義だということであろうか
だが、人生には間違いが許されない領域がある。一回間違えたらまた次、とはいかない領域だ。一回の間違いが取り返しのつかない領域というのがある。苦しいことだが、これもまた人生と言わざるを得ない。
間違えることができる領域(再チャレンジができる)というのは人生の中でもある限られた一部だろう。もちろんプラグマティズムはこのような領域だけを対象としているのだというのもありだ。
大体、人間は一発では上手くいかないものであり、上手くいったとしてもそれは偶然かもしれない。だが、世の中にはこの一発目を上手くやる力がある人もいるのかもしれない、ということはよく考える。例えば、有能な経営者のような人たちとか。