ブラックコーヒーと本当の美味しさについての議論
タイトル(仮)
from 2023/07/26
/villagepump/2023/07/26
/villagepump/YES/NOの質問に答えづらい
この日の井戸端日記では、/villagepump/コーヒーはブラックで飲むのが本当の美味しさを堪能する方法だと思うか?から、「いやそもそもこの、“本当の美味しさ”ってなに?」という話が散見される。
この場合の“本当の美味しさ”が指すものを特定するには、どのように考えていけばいいんだろう?
cman.iconは直観的に「“本当”ってなに?」みたいな方向なのかなと思った
本当があるなら偽とかがあるの?とかそういう感じ。
「真と偽」の対比というよりは「本物と贋物」の対比における真正さのことだと思う久住哲.icon
たしかに.icon 本当、だったから偽にしたけど、「まがいもの」とか贋物のほうがニュアンスちかいですねcman.icon
もしそういう感じならば、贋物は不当であり本物は正当なので、次のような感じになると思う:「本当の美味しさ」とは、それを指して美味しいと主張したときにその主張が正当なものとして承認されるものである。で、その「本当の美味しさ」を証明するための方法が〈ブラックコーヒーを飲むこと〉であるか?と言われると、だいぶ変な気がする久住哲.icon
まずそもそも、美味しいという自らの意見を正当化するべき場面が少ない。「私が美味しいんだからいいじゃん」で済む。
コーヒーを飲んだとき、「このミルクの風味と甘みが美味しいのだ」と主張した場合、それは正当なものとして承認されるだろうか?cman.icon
される久住哲.icon
「ミルクの風味と甘みが美味しい」単体で考えれば、まぁそうだねって感じがする。「君が美味しいと思うならそうだ」という感じだ。
こう言い換えると正当じゃなさそう:「コーヒーの美味しさとは、ミルクの風味と甘みである」
たしかに久住哲.icon
なぜ「たしかに(正当じゃない)」と思うかと言えば、その発言が聞き慣れないからだ。
いやもう少し手前で、「そもそもコーヒーの味の感想の正当性を問うことは適当ではないのでは?」ということを確認するべきだろう久住哲.icon
「コーヒーの美味しさとは〇〇である」の形にしたときに、たしかにミルクや砂糖に完全にフォーカスを当てると、正当性が欠ける感じがする。
「コーヒー」には「ブラック」と「ミルクや砂糖を入れたもの」が含まれるが、僕らが単に「コーヒー」と聞いたときに思い浮かべる像は典型的にはブラックコーヒーの(形?)をしている?
この形はコーヒー一般について言及する文だな。例えば特定のコーヒーにするとどうだろう。「このコーヒーの美味しさとは、ミルクの風味と甘みである」
正当化されそう久住哲.icon
「とは」だと容認度が落ちるけど、「このコーヒーの美味しさは~」だとすんなりと「そのようなコーヒーもあるか、ミルクと砂糖にこだわっているのだろうか」という解釈ができそう。(「とは」、でも解釈はできる)
「とは」には唯一性とか本質とかを付与する感覚があるのか。究極の原因ではないから違和感がある?
/villagepump/2023/07/26#64c0605d6eb40600000fd59bがNoと答えられているのは、それゆえだろう。
cman.iconだとコミュニケーションの意図の話になり、発話の前に「本当の美味しさ」と対比される「本当ではない美味しさ」を話者は想定しており、その想定された「本当ではない」美味しさは当然、ブラックと対比される、ミルクや砂糖が入った状態での美味しさだろう
意図か久住哲.icon
となると、この文は論点先取じみてる。暗黙のうちに「ミルクや砂糖が入ったコーヒーの美味しさは、本当の美味しさではない(ブラックが本当の美味しさだ)」としておきながら、「ブラックで飲むのが本当の美味しさを堪能する方法か?」と問うている気がする。なるほどな〜〜
そう考えると「なるほど」となる久住哲.icon
ぜったい瑕疵があるゾ〜コレ
「ブラックが苦すぎて味が分からなくなるってことですか?」と尋ねればいい久住哲.icon
いや、ちがいますと言われたら、別な質問を考えなきゃだめだけど……
「本当の美味しさ」を「素材の美味しさ」であるとした場合、問題を、ある素材の味を他の素材と比較するにあたりブラックで飲むのが適切かどうかという形に変形できそう久住哲.icon
/villagepump/コーヒーはブラックで飲むのが本当の美味しさを堪能する方法だと思うか?#64bfe26c774b170000dee3d6
人にブラックコーヒーを飲ませたところ、「ぶひゃ!苦すぎる!こんなんじゃ味なんて分からないよ」と言う場面は想像できる。そういう人に対して「なるほど。君はブラックだとコーヒーの本当の美味しさが分からなそうだ」と言えそうではある。
この場合、次の2つの試みる方法が考えられる
砂糖やミルクを入れたら、コーヒーの美味しさというものが分かるだろうから試してみよう
コーヒーがブラックでなくなっていく過程のどこかで〈美味しい〉と思えたタイミングがあった場合、「それがコーヒーの美味しさだよ」と言ってもいい。
だが、「いや、これは、ミルクの味が、コーヒーで引き立てられているのだ」とか「これはコーヒーミルクの美味しさだ」とかも言える。
その場合、「それがミルクやコーヒーミルクの美味しさではないと確定するために、ブラックコーヒーを美味しいと思ってもらわねばなるまい」と言う場面は想像できる。
この場合、〈コーヒーの本当の美味しさが分かる〉とは〈その美味しさがコーヒーの美味しさであると特定できる〉という意味だ。
だがやばい人はこう言うだろう:「いや、コーヒーによって水の美味しさが引き立っているんだ」
この人は苦さに対する耐性ができるまでコーヒーの美味しさが分からない。その時を待とう。
この場合、〈コーヒーの本当の美味しさはブラックでなければ分からない〉ということが前提されている
この場合、〈本当の美味しさ〉とは〈ブラックコーヒーの味〉のことである
「コーヒーはブラックで飲むのが本当の美味しさを堪能する方法だと思うか?だってブラック苦すぎて味わかんないじゃん」という質問であれば、「本当の美味しさ」が何を指すのかがより分かりやすいだろう。
cman.iconこの発話は思いつかなかった。なるほど、「思うか、否か」でも、意図が「思うか?(当然思わないよな?)」みたいなパターンもあるわけだ
別な切り口から
「君はインスタントコーヒーを飲んでマズいマズいって言ってるけどね、一回豆から挽いてみなよ。そうしたら、コーヒーの本当の美味しさが分かるから」と言う場合、ここでは、「コーヒーはマズい」という主張の正当性が問われている。
つまり、インスタントコーヒーしか飲んだことない人は、コーヒー全般についてその味の是非を主張する資格がない、ということだ。せいぜい「インスタントコーヒーはマズい」ぐらいなら許せるが、「コーヒーは……」と言うにしては、コーヒーを語るにしては、……経験がなさすぎる。
では、ブラックコーヒーを飲んだことがなくて、砂糖とミルクを入れてしかコーヒーを飲んだことがない人が「コーヒーは美味しい」と言っているのに対して、「ブラックコーヒーを飲んだことがないのに、コーヒーが美味しいだなんて言えないだろう」と、その主張の正当性を問えるだろうか?なんかおかしい。べつに、ブラックコーヒーを飲んだことがなくても、「コーヒーって美味しいよね」と言ってもよさそう。この例でも、主張者の経験は少ないはずだ。なぜそのような非対称が生じるのか?
マズいはセンシティブであり、上手いは受け入れられやすいからだ。
コーヒー好きな人は、「本当に美味しい」コーヒーを知っており、かつ、コーヒーが好きなので、それが不当にマズいと評価されることが嫌だと感じる……と言ってよいだろう。ところが、コーヒー好きな人は、ブラックコーヒーを飲んだことがなくてもコーヒーを美味しがる人を見ても嫌がらない……ということが想像できる。
だが、こう言う人も想像できる:「ブラックコーヒーを飲んだことないのに、コーヒーは美味しいって言ってほしくないな〜」……久住哲.iconはこういう人がよく分からない。意地悪だなと思う。では、「ブラックコーヒーを飲んだことないのに、『私はコーヒーの本当の美味しさを堪能している』って言ってほしくないな〜」であれば?これはちょっと分かる。何が違うのか?
cman.icon「コーヒー」には「ブラックコーヒー」と「砂糖・ミルクを入れたコーヒー」が含まれる。「堪能している」には現在では“深くその道に通じ、優れている”という意味も重なるから、隅々まで味わい尽くしているような印象がある。しかしブラックコーヒーを飲んだことがない場合、「コーヒー」の内部にある「砂糖・ミルクを入れたコーヒー」しか味わったことがないのにも関わらず、「堪能している」と全てを味わったかのような発話をしている。これはコーヒー好きにとっては、『』で括られた台詞を発話した人物が、「コーヒー」というものの奥深さや広さを軽視し、狭く簡単なものであるかのように扱っていると感じられそう。
そして、ここでも発言のセンシティブさ・受け入れやすさを考慮してみると、どうだろう?
だがやばい人はこう言うだろう:「いや、コーヒーによって水の美味しさが引き立っているんだ」
これめっちゃすきcman.icon
/villagepump/2023/07/27#64c23b3ded60e60000a97d43
マウンティングが関わってきそうだ久住哲.icon