フルトヴェングラー
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ドイツの指揮者、作曲家。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を1922年から1945年まで、終身指揮者を1947年から1954年まで務め、20世紀前半を代表する指揮者のひとりとされている。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー等のドイツ音楽の本流を得意とした。一般には後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承した演奏とされ、作曲家としても後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承したことから、ライバルのトスカニーニと対極に位置づけられることもあるが、「堅固な構築性をそなえた演奏を『ロマン主義的演奏』というだけで片付けてしまうのは軽率」とする見解もあり、またフルトヴェングラー自身は「後期ロマン主義者」と看做されることを極度に嫌い、「私はロマン主義者でも古典主義者でもない」と語ったともいわれる。 音楽評論家の吉田秀和はフルトヴェングラーについて、「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」「(ベートーヴェンが)これらの音楽に封じ込めていた観念と情念が生き返ってくるのがきこえる」と評している。
現在でもCDが続々と発売され、放送録音、海賊録音の発掘も多く、真偽論争となったレコードも少なくない。
妹メーリットは、哲学者マックス・シェーラーの妻。甥ベルンハルトと妻エリーザベトの連れ子カトリーンの間の娘のマリア・フルトヴェングラーは女優で医師。
音が出る前から指揮棒の先が細かく震え始め、アインザッツが非常にわかりにくいその独特の指揮法から、日本ではフルトヴェングラーをもじって「振ると面食らう」などと評され、「フルヴェン」の愛称で親しまれている。 1886年 ベルリンにて誕生。
1901年 マックス・フォン・シリングスから作曲を学び始める。
1906年 カイム管弦楽団(現在のミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団)を指揮しデビュー。デビュー・コンサートのプログラムは、ベートーヴェン「献堂式序曲」、自作のアダージョ、ブルックナー交響曲第九番。同年チューリヒ歌劇場の第三指揮者となる。
1909年 シュトラスブルク歌劇場の第三指揮者となり、ハンス・プフィッツナーと交わる。
1911年 リューベックの音楽監督となる。リューベック在任中に、ハンブルクで活動していたアルトゥール・ニキシュと交わる。
1915年 マンハイムの音楽監督となる。
1922年 同年死去したアルトゥール・ニキシュの後任として、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団およびベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。
1927年 フェリックス・ワインガルトナーの後継としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。
1931年 バイロイト祝祭劇場にはじめて出演し、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を指揮。
1933年 ベルリン国立歌劇場でワーグナーの「マイスタージンガー」を指揮した際、首相ヒトラーと握手している写真を撮影される。9月15日、ヘルマン・ゲーリングの指令により、プロイセン枢密顧問官に就任。同年11月15日には帝国音楽院副総裁に就任。
1934年 ヒンデミット事件によりナチス政府と対立。12月5日、ベルリン・フィル音楽監督、ベルリン国立歌劇場音楽監督、プロイセン枢密顧問官および帝国音楽院副総裁を辞任。 1935年 客演指揮者としてベルリン・フィルに復帰。
1936年 ニューヨーク・フィルの次期音楽監督にトスカニーニから指名されるが、ナチスの妨害により破談。
1938年 ドイツのオーストリア併合後、ナチスによるウィーン・フィル解散を阻止。
1939年 第二次世界大戦が勃発するがドイツに残る。国内のユダヤ人音楽家を庇護。
1945年
2月 ウィーン・フィルの定期演奏会後にスイスへ亡命(彼を嫌うナチス高官ハインリヒ・ヒムラーから逮捕命令を出されていた)。
5月 戦時中のナチ協力を疑われ、演奏禁止処分を受ける。
1947年 「非ナチ化」裁判の無罪判決をうけ、音楽界に復帰。ベルリン・フィルの終身指揮者に。
1948年 シカゴ交響楽団の常任指揮者就任の要請を受けるが、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ミルシテイン、ピアティゴルスキー、ハイフェッツを含むユダヤ系音楽家たちからの抗議により破談。
1951年 バイロイト音楽祭再開記念演奏会でベートーヴェンの交響曲第9番を指揮(7月29日、バイロイトの第九)。
1954年 肺炎により死去。68歳。