ピタゴラス派
万物の原理は数である
ギリシャに異邦の原理(主観性)を持ち込み、ギリシャ哲学の中で初めて理念的世界を立ち上げた。
宗教結社として出発
オルフィック教は北方のトラキア地方に起こったディオニュソス崇拝に始まる。 ディオニュソス(別名バッカス)崇拝では熱狂的女性信者たち(バッコイ)が葡萄酒に酔って踊り狂い、生きたままの獣を引裂き生肉を食らう。このような集団的狂乱によって忘我の境地にいたる蜜儀を行っていた。 いわばトランス状態になり、魂を閉じ込めている墓場である身体から脱することによって神と合体することが意図された。
ピタゴラス教団はこの精神化の方向をさらに推し進めた。
教義
ピタゴラス教団では魂の輪廻説を教義とし、輪廻の輪から魂を解脱させるためにアクウスマタと呼ばれる厳しい戒律を守り禁欲的な集団生活を課し、他方では音楽と数学を実践させた。 教義では魂が他の動植物の身体を巡ってまた人間の身体に戻るのには3000年を要すると考えられていた。
また、ピタゴラス教団において数学は数学研究そのもののために研究されていたわけではなく、魂を浄化するための手段の一つとして、宗教的な業(エルゴン)として実践されていた。 万物は数と数関係に還元される
ピタゴラスは鍛冶屋職人たちが打つハンマーの音を聞き、音程に対応する数比の存在に気づいた。
(ボエティウス『音楽教程』)
1オクターブが2:1、完全5度が3:2、完全4度が4:3である。
この発見によりのちに発展する西洋音楽が合理的で普遍的な音楽になりえたと言える。
またこれらの数字の和(1+2+3+4)は10であり、十進法における10は最も基本的な数であり、幾何学における最も基本的な図形である正三角形は下のテトラクテュスが示すような整数の和である。
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それら一見無関係のような音楽、算術、幾何学が同じ数関係に還元されるという事実は彼らに神秘的な印象を与えた。
そのため彼らは10を完全な数であり万物の本性を包括するものであるとし、重要な誓いを立てるときにはこの音楽と幾何学と算術の合一を示す「10のテトラクテュス」にかけて誓ったとされる。(アエティオス『学術誌』)
ピタゴラス教団の数学上の業績は数多く、今日「ユークリッド幾何学」として知られている幾何学体系における定理や証明の大部分がピタゴラス教団で研究され、発見されていたものと推測される。 調和と対立
音楽は音という「無限定なもの」に「限定=比(ロゴス)」が加わることによって「限定されたもの」(音階)が出来上がる。 そうして出来た「限定されたもの」は一定の比例関係によって限定されているがゆえに美しい調和(ハルモニア)を保っている。これと同じ原理が音楽だけでなく万物を支配しており、この整然とした秩序と調和を持った世界を「コスモス」と呼び、もともと秩序や装飾を意味する言葉だったコスモスは「世界」や「宇宙」を意味するようになった。 そして「無限定なもの」と「限定づけるもの」の対立と調和から世界が成り立っているとともに、万物の構成要素であると結論付けた。
ピタゴラス派は次の10の対立をあげている。
①限定と無限定なもの ②奇数と偶数 ③一と多 ④右と左 ⑤男と女 ⑥静止と運動 ⑦直と曲 ⑧光と闇 ⑨善と悪 ⑩正方形と長方形
宇宙論
ピタゴラス派は大地(地球)は球形とし、地動説を最初に唱えた。 宇宙の真ん中に中心火があり、その上に対地星、その上に大地、さらにその上に月、太陽、5つの惑星があり、すべて中心火の周りを円軌道を描いて周行しているという。
このように一定の比によって限定され、美しい調和を有する宇宙は、私たちの粗雑な耳には聴こえないが、精妙な音楽を奏でていると考えられた。
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無理数の発見
ピタゴラスの徒としてピタゴラス教団に入るには、財産を共有し、数学の試験もあった。 また、財産は個人で持つが、ピタゴラス教団に共感し、集会などに時折参加するピタゴラス主義者もいた。
数学はとても難しいので、教団の中でも正面から数学の研究に携わる人(学問生)と研究成果を聴講し他の業(エルゴン)に注力する人(聴講生)に分かれていた。
それは教団内に大きな衝撃を与え、秘密主義の宗教結社であったピタゴラス教団はその事実をひた隠していた。
しかし弟子のヒッパソスが外部に漏らしてしまい、周りから責められ海に身投げしたとも、船から突き落とされたとも言われている。死者が出るほど無理数の発見はピタゴラス派自らの学説を破綻させる大問題だった。
ピタゴラス派大迫害
ピタゴラス派の政治的力
ピタゴラス教団にはその知的で高潔な貴族主義的雰囲気に惹かれて教団に帰依する人たちも多くおり、クロトンをはじめとするマグナ・グライキア(大ギリシャ)の諸ポリスにおいて政治的力を獲得し、国政をピタゴラス学徒たちに委ねることを是とする風潮があった。その反面そういった雰囲気に馴染まない人たちに反感を抱かせ、敵視の対象ともなった。
あるときキュロンという生まれも立派で富も名声もある人物がピタゴラスに入会を希望したところ、粗暴で喧嘩好きな性格を理由に資格なしとされた。
キュロンはピタゴラス教団を激しく憎み、遂にピタゴラスは晩年クロトンからメタポンティオンに退かざるをえなくなり、その地で生涯を閉じたと言われる。
ピタゴラスをクロトンから追い出したあともキュロン一派のピタゴラス派への迫害は続き、競技者ミロン(オリンピア競技で5度も優勝した)の屋敷でピタゴラス学徒たちが国事の協議しているところをキュロン一派が襲いかかり、屋敷ごと焼き討ちにした。若く強健だったアルキッポスとリュシスだけが逃げのびることができた。
これほどの事件であったにもかかわらず、各ポリスは何の関心も示さなかった。
その後アルキッポスはタラスへ、リュシスはアカイアを経てテーバイに移住し、名将エパメイノンダスを教え、エパメイノンダスはリュシスのことを父と呼んだ。以上はアリストクセノスの述べるところである。
(イアンブリコス『ピタゴラス伝』)
前570年頃〜前496年
サモス島の出身というのが通説だがギリシャの伝承ではテュレニア人であるとか、シリア人、テュロス人、北方の民(ヒュペルボレイオイ)などとも言われている。
(クレメンス『雑録集』、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシャ哲学者列伝』、アイリアノス『ギリシャ奇談集』)
ギリシャ人たちの中でピタゴラスの出自に確信が持てていなかったと言える。
エジプト人、カルダイア人、フェニキア人から知識を得て、さらにはカルダイアのツァラトゥストラ(ペルシャのゾロアスター教の始祖)をも訪ねたとする報告もある。(ポリピュリオス『ピタゴラス伝』、ヒッポリュトス『全異端派論駁』) これらピタゴラスの非ギリシャ人説や、異国由来の知識、非ギリシャ的宗教要素が、ギリシャの民族の集合的無意識、潜在的な共通意識に反しており、そうしたピタゴラスとピタゴラス派の理念的世界は当時のギリシャ人たちに違和感を抱かせ、根深い差異意識、反発意識を呼び大迫害にいたったと考えられる。
知的貴族主義に対する民衆の反感やキュロンという一個人の恨みは契機には違いないが、迫害がイタリア全土に及ぶ規模であったことやその徹底性から、すでに広く一般に「ピタゴラス派は排除されるべし」という意識が個人レベルを超えた共通意識として潜在していたことが窺える。
この迫害のあと、ピタゴラス派はポリスの世話をやめたため、荒廃したポリスはアカイア人が治めた。 アカイア人はギリシャ古来の伝統の体現者であり、ホメロスの『イリアス』も基本的にアカイア人の物語である。 そして子どもたちの教育はホメロスを聞くか読むかだった。
ピタゴラス派迫害は非ギリシャ的なものへの反動であり、ギリシャ古来の伝統への復古運動でもあった。
イアンブリコスの報告にある迫害への「各ポリスの無関心」は無関心などではなく、ピタゴラス派迫害に対するギリシャ世界の冷たい認可である。
ピタゴラスについて、その潔癖さ合理性、厳格さのイメージとともにその真逆の不思議な報告も数多く残されている。
(予知や透視、空間のワープ、異空間における同時存在、生まれ変わりなど。)
アリストテレスのいうところによれば、あるとき彼は劇場に座っていたが、立ち上がって自分の腿が黄金であるのを一座の人々に示して見せたとのことである。
(アポロニオス『奇談集』)
ピタゴラスは合理性(ロゴン)と非合理性(アゴロン)を併せ持ち、それを一人の人間のうちに両立しえた人物だった。
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日の出を祝うピタゴラスの徒
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