パンクはどこで生まれたか?
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1974年から1975年にかけてNYのマキシズ・カンザスシティやCBGBなどのライブハウスなどを拠点に演奏していたアーティストたち が中心になり始まった。
60年代後半から70年代前半にかけてロックは急速にその形を整え、発展した。同時にその音楽資本の体制も確立される。ロックの産業化だ。 資本側の論理で「ロックはこういうものだ」という定義づけが出来上がり、メジャー・レーベルと契約をこぎつけたバンド、もしくはそこを目指すバンドはそのレールの上を走る必要があった。その規範から外れたバンドはアンダーグラウンド化せざるを得ない。そのような音楽資本の商業システムから離れ孤立していた異端のグループが集まり、ニューヨーク・パンクが生まれた。
当時オープンしたばかりのCBGBをオーナーのヒリー・クリスタルは、そのようなあぶれたアマチュアバンドたちがオリジナル曲を演奏できる場所として提供した。テレヴィジョン、パティ・スミス・グループ、ラモーンズ、ブロンディ、ミンク・デヴィル、トーキング・ヘッズ、リチャード・ヘル&ヴォイドイズ、ディクテイターズ、ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレーカーズ、デッド・ボーイズ、ミスフィッツ、タフ・ダーツ、ザ・フレッシュトーンズ、クランプス、B52s、The Shirtsほか、多くのバンドがライブをおこなった。 彼らが求めたものは商品として洗練されパッケージされた音楽ではなく、海のものとも山のものともつかない、無限の可能性を秘めた生々しいエネルギッシュな音楽である。かつてロックが始まった時代の音、若者の切実な自己表現であった時代の音である「原型としてのロック」に立ち戻ろうとした。つまり、産業化、形式化したロックのカウンターカルチャーとしてパンクが生まれたのである。 しかし結局、ニューヨーク・パンクはローカル・ムーヴメントに終わり、アメリカ中を巻き込むような一大ムーヴメントには到達しなかった(もちろんCBGBで演奏したバンドたちの中には、一流のロックバンドとして認められることにはなったバンドが数多くいるが)。
しかし、マルコム・マクラーレンというロンドン生まれの男が(彼は当時ニューヨーク・ドールズのマネージャーをしていた)このパンクというカルチャーを母国に持ち込むことになる......そしてあのイギリス全土の若者を喝采させたロンドン・パンクムーヴメントが始まるのである。 ※マクラーレンはリチャード・ヘルのファッション(ツンツンショートヘア、破れた服、安全ピンなど)を取り入れた。この音楽と組み合わせたファッション戦略はロンドン・パンクにおいては大きな効果があった。いわゆるパンク・ファッションのルーツもニューヨークパンクの一側面にあったと言えるだろう。
参考文献『ONTOMO MOOK ロック・オルタナティヴ パンク/ニューウェイヴ&80'S アルバム・ガイド800』
追記
この文章は、わかりやすく説明するために、マルコム・マクラーレンが所属していたシチュアシオニスト・インターナショナル、所謂シチュアシオニストとパンクのつながりは省いている。シチュアシオニストはダダやシュルレアリスムの流れを汲む反芸術的芸術運動であり、パンクは単なる音楽のみにとどまらないもっと前の時代からの大きな潮流の中にあったということはあまり知られていない