ノート(イ)
文学者と芸術家の違い
悲劇と哀悼劇
「芸術性」と「生産性」
「解決」と「進歩」
「いやらしさ」「海藻」
以下の作品は、それぞれの筆者の遺作となった小説である。西暦は享年である。
『特性のない男』 1942年
『豊饒の海』 1970年
『死靈』 1997年
『2666』 2003年
ボラーニョは三島由紀夫を読んでんじゃないか?
フォークナー―三島由紀夫―ボラーニョの線……暗示者
ドストエフスキー―大江健三郎―村上春樹の線……予定調和
メルヴィル―ムージル―埴谷雄高の線……大風呂敷
紫式部―セルバンテス―トルストイ……原型
全体を、総合を書くということは、その実、あらゆる形式/様式の関連を書く、つまり分散した世界の裂け目=裂け目の両端を書く、つまり現存する諸大陸を書くことで失われた超大陸を書く、大地の裂け目=裂け目としての大地。不吉を、不在を、不満を、不快を、不安をもよおさせる暗示=全体としての世界が啓示される時への悪阻。
全体小説、総合小説はドミナントである。長大な冗長な記述の全てがある解決へ向かうが、決して解決が鳴らされないシンフォニー。トニックが遠くの大陸で鳴っている=深海の歌。「音楽」(クラシカルな西洋音楽体系)と「文学」(近代小説)の本質的な方法の分かれ目。つまり、「音楽」は解決されなければならず、「文学」は解決寸前に向かわなければならない。「音楽」の理想は調和(の現前)であり、「文学」の理想は破綻(の現前)である。「芸術」というカテゴリーで見れば、両道の目論むところは共通する。
創作メモは、その作品の研究にとって重要なものであるが、作家が複数の核となる重要な点を作品に反映させていることを加味すると、ある採用されなかった断片であると考えることができる。もっとも、その断片はまた複数の可能性をもつアイデアの集積である。
「海」は、絶対のアナーキーである(『天人五衰』)。創作-小説もまたアナーキーな営為/結果であるとすれば、それは海を前にした/海に潜る行動であるに違いない。だが、アナーキーが海であるとは限らない。乱雑さがそのまま無意識を表すわけではないように。アナーキーを海にするために、収穫の土壌を整え、耕し、豊かにする必要がある。
後続する作家のあり方に、先行する作家がこたえている場合
言及されない/評価が定まっていないという場合
「変身」(「変化」)をテーマとせず、状態として記述するということ
『特性のない男』
ムージルの書いた小説。未完。大量の遺稿がある。
↑こういうのをnewpageにしていく。
『美しい星』
白鳥座からの使者。大学教授の羽黒、床屋の曽根、銀行員の栗田