ニコラ・ド・マールブランシュ
フランスの哲学者、オラトリオ会修道士
主著:『真理の探求』、『形而上学と宗教についての対話』
1664年、書店でたまたま手にしたデカルトの『人間論』を読んだことがきっかけで哲学に目覚めた。 マールブランシュが所属するオラトリオ会はアウグスティヌス主義であったこともあり、プラトンーアウグスティヌス思想とデカルトの理性を重視する哲学を総合した哲学を展開した。 心身の結合のためには、人間の意志の作用を「機会とした」神の介入が必要である。
たとえば腕を上げる意志することはできるが、腕があげるためには無数にある神経の中からある特定の神経を作動させなければならない。しかしわたしたちはその神経がどこのどのような神経なのか知らないし、その神経の作動を意思することはできない。したがって「自分の腕の運動について、私の意志がその真の原因であることを否定する」(『第十五釈明』第6証明)
腕を上げるという意志と実際に腕が上がるという動作、このような心身の結合には神がそのつど介入していると主張した。
すべての事物を神のうちに見る
神は創造したすべての存在者について、その観念をみずからのうちに有していなければならない。
神はすべての光のみなもとであり、神が存在しなければ「もっとも単純な真理すら理解可能なものとならず」、輝く太陽ですら「見えるもの」とならない。「私たちに被造物を呈示する観念は、その被造物に対応し、それを代理する、神の完全性にすぎない」(『真理の探求』第1巻第14章)
ものを見るということは、そのものの本質である観念(イデー)によって見ることである。
その観念(イデー)は神においては完全性である観念(イデア)である。
個体を個体そのものとして見るためには普遍的なものと存在者の総体が現前していなければならない。
このことは、すべての観念を包含する神が、私たちの精神のうちに現前している場合にのみ可能である。
かくして「私たちはすべてのものを神のうちに見る」(Nous voyons toutes choses en Dieu)
マールブランシュの「観念」はプラトンーアウグスティヌス的観念に近い。
マールブランシュはアウグスティヌスの一節を好んで引用していた。
「イデアとは、ものの恒常普遍な形相、あるいは本質であり、しかも造られたものではないから、永遠的でつねに同じ状態にとどまり、神の知性のうちにある。」
デカルト的懐疑
マールブランシュは判断から感覚を退ける。しかしあやまりの根源は感覚ではなくむしろ意志にあるという。
ここにはデカルト的懐疑の延長が窺える。
「私たちをあやまらせるのは感覚ではない。性急な判断によって私たちをあやまらせるのは、私たちの意志である。
たとえば光が見られているとき、ひとが光を見ていることは確実である。原罪が犯される前であれ後であれ、暖かさが感じられているときには、ひとがそれを感じていると信じるのは、少しもあやまっていない。だが、感覚される暖かさが、それを感覚するたましいの外部にあると判断するとき、人はあやまるのである。」(『真理の探求』第1巻第5章)