データベース消費
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』の中で提唱された概念。
したがって筆者はこの状況を捉えるには、データベースのイメージのほうが適切だと考える。レイの出現は、多くの作家に影響を与えたというより、むしろオタク系文化を支える萌え要素の規則そのものを変えてしまった。その結果、たとえ『エヴァンゲリオン』そのものを意識しない作家たちも、新たに登録された萌え要素(無口、青い髪、白い肌、神秘的能力など)を用い、無意識にレイに酷似したキャラクターを生産するようになってしまった。このように考えたほうが九〇年代後半の現実には近い。レイにかぎらず、オタク系作品に現れるキャラクターは、もはや作品固有の存在なのではなく、消費者によってただちに萌え要素に分解され、登録され、新たなキャラクターを作るための材料として現れる。したがって、萌え要素のデータベースは有力なキャラクターが現れるたびに変化し、その結果、次の季節にはまた、新たな萌え要素を搭載した新世代のキャラクターたちのあいだで熾烈な競争が繰り広げられるのだ。
https://i.gyazo.com/16cc5ad6ab354b8b8d6619446b2a7512.jpg
(中略)
コミック、アニメ、ゲーム、ノベル、イラスト、トレカ、フィギュア、そのほかさまざまな作品や商品の深層にあるものは、いまや決して物語ではない。九〇年代のメディアミックス環境においては、それら多様な作品や商品をまとめあげるものはキャラクターしかない。そして消費者はその前提のうえで、物語を含む企画(コミックやアニメやノベル)と物語を含まない企画(イラストやフィギュア)のあいだを無造作に往復している。ここでは、個々の企画はシミュラークルであり、その背後に、キャラクターや設定からなるデータベースがある。  
(中略)
したがって『デ・ジ・キャラット』を消費するとは、単純に作品(小さな物語)を消費することでも、その背後にある世界観(大きな物語)を消費することでも、さらには設定やキャラクター(大きな非物語)を消費することでもなく、そのさらに奥にある、より広大なオタク系文化全体のデータベースを消費することへと繫がっている。筆者は以下、このような消費行動を、大塚の「物語消費」と対比する意味で「データベース消費」と呼びたいと思う。  
近代からポストモダンへの流れのなかで、私たちの世界像は、物語的で映画的な世界視線によって支えられるものから、データベース的でインターフェイス的な検索エンジンによって読み込まれるものへと大きく変動している。
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』
https://i.gyazo.com/7cb594a919f73f654ec6fcf4d8447468.jpg
しかし、この説明では分かりにくいかもしれない。データベース消費の中で最も分かりやすいのは「ピストン東」である。東浩紀本人も、「あの解説(ニコニコ大百科の『ピストン東』の解説)がはてなやWikipediaなんかより一番いい」と言及している。
東の考えでは、とりわけ95年以降(EVAブーム以降)のオタク文化は、「データベース」からコンテンツの構成要素(モジュール)を引っ張りだし、それを組み合わせることで「シミュラークル」(二次創作物)を生み出していく点に特徴がある。オタクたちは、コンテンツに込められた物語やメッセージを消費するのではなく、そこに描かれた「キャラクター」などを消費する。それゆえキャラクターたちは、しばしば作品の枠を超えて、別の作品に登場する(二次創作やMAD文化)。これを東は「データベース消費」と呼んだ。
ピストン東(あるいは「あずMAD」)の出現は、この理論に従っていうならば、「データベース消費」についてのメタ理論を提唱していた東その人が、ついに「データベース」のオブジェクトレベルに登録されたことを意味している。
ピストン東-ニコニコ大百科
詳しくは以下の動画を参照のこと。
11月号大反省会 その6
東オブピストン
参考文献:ピストン東-ニコニコ大百科、東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』
uvoa.iconんん??自分の抱いた大きな物語のイメージとだいぶ異なる。漫画アニメのストーリーと「大きな物語」が同じ立ち位置になるのか? オタク文化の分析をポストモダンの話にこじつけているのかしら?
あ、後で気付いた。大きな物語はポストモダンである現代では既に消えているという話だったな。
くま子.icon東浩紀によるとオタクの消費の仕方はポストモダン的らしいのだけど、80年代の大塚英志提唱の「物語消費」は終わって、90年代後半からオタク達は「データベース消費」をするようになった、そういう話みたいです。
ばる.icon確かガンダムあたりまでは、その世界観が失われた大きな物語の”虚構”として機能していたという話だったかな。これを「物語消費」と言って、エヴァ以降はその「データベース消費」に移行していったみたいな。
uvoa.iconはえ〜そうなんですね。ちなみにこれは、たとえばガンダムの世界観がその人にとっての「大きな物語」(宗教的な信条だったり人生の支えとなるようなもの)であるという意味ではないんですよね?あくまで物語消費のいう「大きな物語」は例え話であって、本来の(リオタールが言った)「大きな物語」とは異なるものという解釈で合ってますかね?というか、今の所こじつけのようにしか思えない…。
ばる.icon今『動ポモ』をパパっと読み返した印象では、ここで言われている「大きな物語」はリオタールの「大きな物語」とは対応はしているのですが、おそらく「消費」というのがポイントで、ガンダムの世界観がその世代の信条や政治的イデオロギーにとって変わるというよりは、大きな物語が失われた世代においては、何か背後に大きな世界観があるものを消費してしまう傾向にある、ということが言いたいのではないかと思いました。
しかし、この中では同時にオウム真理教の話もしています。オウムが、左翼運動に乗り遅れた世代の終わった大きな物語(左翼運動)の代替品、世界を変える運動としての捏造として機能していたのではないかという話ですね。この辺は『動ポモ』よりも大澤真幸の本あたりに詳しく書かれていた記憶がある。麻原の世界観とガンダムの世界観のその現実味のなさはそんなに変わりはないでしょうから、ガンダムの世界観もやり方が違えばある人間の「大きな物語」になりうるかもしれません。
uvoa.iconお〜なるほど、分かりやすい説明をありがとうございます。たぶん自分の疑問点がクリアになった気がします。
uvoa.icon そういうことですか。作品そのものよりも、それをネタにオタクたちでわいわい盛り上がる楽しみ方にシフトしてる的な。あー、それはなんとなく分かるようなお話。
二次創作や、ニコニコ動画のコメント、MAD作品、2ちゃんねるのまとめサイトとかそういうイメージでいる。
uvoa.iconよく分からないけれど、ポストモダンの人(論者・分析家)たちはそういった姿勢をどう捉えているのだろうか🤔否定的なんだろうかね。まぁたぶん否定的なんだろうな。
ばる.iconウゔぉあーんの言う「そういった姿勢」ちゅうのは二次創作やらネタでワイワイやる〜みたいな姿勢かな?それならむしろ肯定的というか、そういう姿勢がポストモダン的っちゅう話じゃないかな?ただ、こういう風に「ポストモダン的」だとか、学術的に括られることに対しては否定的でしょうね。東の本にもオタクの人たちから否定的な意見が寄せられたとか、そんなことも書いてたっけ。
なんかウゔぉあーさんのコメントと読み違えた気がする。「ポストモダンの人たち」=オタクじゃなくて、=研究者とか思想家みたいな話だったのかな。
ですです。すいません、記述が足りなくて。ポストモダンの論者達がオタクの楽しみ方を否定的に捉えているのではないのかなぁとか思ったり。いや、まったく根拠はないですがuvoa.icon
ばる.icon東さんなんかはつまりそのオタクの行動を「動物的」としてるわけで、その辺が否定的である風に見られやすいですね。ただ、彼は「動物化は、別にそんなに悪いことでもないんですよ」みたいに言ってましたね。ちなみにこの「動物化」の定義もきちんと調べないと誤解されそうです。
そんな悪いことでもないんですね。実は動ポモは持ってるのでここから先の詳しい話は参照してみますかね。uvoa.icon
とはいえ、思想家よりも作品を作っている側がどう思うかを重要視するべきだなとふと思った(私個人の中での話)uvoa.icon