デュナミス
どこで出てくるか
『自然学』においては、〈動いているものはすべて他のものによって動かされている〉の証明に使われているらしい デュナミスというのはアリストテレスの言葉です。
コトバンクでは「何かになりうる状態」とありますが、アリストテレスの『形而上学』第5巻第12章における定義はぜんぜん違います。
読んでないのでわからないですが、『自然学』という本ではまた別な説明なのかもしれません。
アリストテレスの定義は「それとは他なるもののうちに、あるいは他なるものとしてそれ自らのうちに内在するところのそれを転化させる原理」です。
「原理」の原語は、アルケーです。
デュナミス。それは、変化のアルケーであり、変化するものとは他なるものに内在している。
変化とは何なのか。それはおそらく、私たちがまっさきに出会う現象です。すなわち、実際に起こっている様々な出来事。
「他なるもの」とは何なのか。そこには、能動と受動という図式があります。変化があるからには、変化させるものと変化させられるものがある……という前提があるのでしょう。
自ら変化するものは、その変化の原理を、「他なるものとしてのそれ自らのうちに」もっている。
やはり「他なるもの」が分かりにくいです。
読解を例にすれば分かるかもしれません。
【読解の例】
学習して理解できなかったものが理解できるように"成長"したことを例にとりますと、このように理解が起こるようになったという変化はその人に起こっていますが、解釈する者としてのその人のうちにその理解の原理があるわけではなく、何か別なものとしてのその人にその原理があるということになります。私がどんなに頑張っても、理解できないものは理解できません。その意味では、「読む私」のうちに原理はありません。しかしまた、誰か別な人だったり機械が、私をして読むことを可能にしているわけでもありません。以前読めなかった本を読めるようになったとしても、それは、いつのまにか読めるようになっていた……というのが実際のところです。
実際に読んでいる自分は、すでに得られた文脈に安んじながら、文章の理解可能という状況に満足しています。そもそも「文脈」みたいなものに特別注意を向けなくても、読めているからなにも問題はない。ですが、理解不能な箇所にぶつかったとき、「不可能」が起こります。ここで能力の欠如が前面に出る。すると逆説的に、「これまで読むことを可能にしていた自分」という、「読んでいた自分とは他なる自分」がみつかる。あるいは、「自分のうちの、行為している部分ではなく、その行為を可能にしている部分」がみつかる。
特定の文脈で文章を理解していることも、「変化(メタボレ)」の一種でしょう。 了解はいつでも世界=内=存在としての現存在の開示態の全容にかかわっているのであるから、了解がどれかの可能性に専念することは、投企全体の実存論的変様なのである。from 『存在と時間』§31
ハイデガーはというと、この定義について「デュナミスは出発である。つまり、転化への出口Von-wo-ausであり、しかも転化するものとは別の仕方であるものである」とコメントして、デュナミスは「動かされるものを、「〜に適していること」あるいは「適性」という方向へと転化してゆく力」だと言っています。
私たちがある文章を「普通に読めている」ということは、或る能力の実行でしょうけれど、これは、私たちがそういった文章に「適している」状態に転化させられている……と読み替えられます。
植物が芽を出し、葉を増やしてゆく。こういった変化のアルケー(原理)として、デュナミスがある。植物的なデュナミスは「食養を摂取し成育するということの因となるもの」です。こういった植物的なデュナミスは、植物のみならず、動物にも、もちろん人間にもあります。