ダブリナーズ読書会①の模様
"The Sisters"......"Two Gallants"
ばる
とりあえず『姉妹』だけ読みました。
だらだらしてない(短編だからそりゃそうなんだけど)。あまり詳細を書きこまない文章だなと感じました。
それだけに想像の余地があるのですが、お話の設定について、フリンさんは神父だから彼はカトリックなんだろう。ジョイスの生きていた時代だとアイルランドカトリックはプロテスタントに差別されていたんじゃないかな。神父も姉妹も助けてくれる古い友人は存在するが、そこまで幸せそうではない。こういう地味な感じの「ダブリンの人たち」を書いていく小説なのかな?
リクトー
最初の2編だけ読んだけど、これはひょっとすると全部読まないと意味が分からないタイプの短編集なんじゃないかと疑っている
最初の話が死から始まっており、かつその最後に死人が蘇るのではないかという疑いが挟まれる
土くれを読んだ。これは良い短編だった。心に残る
痛ましい事故を読んだ。これも良かった。これはかなり核心に迫る短編ではないかと疑う。
ソーントンワイルダーの「わが町」を思い出した。
イタロー
「遭遇」
冒険小説から一転、スリラーめいてくるのがおもしろかったです。
ばる
「遭遇」も筋は簡潔なんだが何が潜んでるのかよくわからない不気味さがあるナリね。
「アラビー」まで読みましたが、少年の目線の話なんだね。
イタロー
まあ期間がたっぷりあるんで細かいところをつついきたいと思いますが、「遭遇」に出てくる「ライアン氏」。
翻訳によってライアン先生だったりミスター・ライアンだったりしますが。
ディロンに対してするであろう折檻の表現も食らわせたり撲ったり鞭打ったり。
岩波文庫だと鞭を食らわせるらしいですが、それだと後の方の記述から言って「ぼく」は嘘をついてるとか、ディロンは特別な教育を受けてるとかいろいろ考えました。
……三時にライアン先生に何発撲たれるとか言って、
新潮・柳瀬訳
……あいつは三時にミスター・ライアンから何べん鞭を食らうかなあ、と当てっこをして……
岩波・結城訳
We revenged ourselves on Leo Dillon by saying what a funk he was and guessing how many he would get at three o’clock from Mr Ryan.
ちなみに原文ではこの部分みたいですね。
ばる
ぼくは縦書き文庫のやつで読んでいますが、
三時にライアン氏からいくつ食らうか当てっこをしたりしてレオ・ディロンに報復した。
こちらは無難な訳に落ち着いてますね。
原文だと、少年と謎の男の間に出てくる鞭打ちの話では、はっきり"whipped"=鞭打つ、折檻する、という単語が入っている。ライアン氏の部分では、入っていない。なので一見縦書き訳や、新潮訳が正しいように思える。
岩波がライアン氏のところで「鞭を食らう」と表現したのは、後の部分とはっきりした関係性があると考えたのでしょうか。
また男の話の中で、
少年が乱暴で手におえない時には、思いやりある健全な鞭打ちが何より彼のためになる。手を打ったり横面を張るのはよくない。彼が望むのは気持ちよく優しい鞭打ちを受けることだ。
という鞭打ちアゲ、平手サゲみたいなことを言っている。この少年たちは普段鞭で打たれているのか、平手でぶたれているのかで、読み方が変わってきますね。
イタロー
なるほど。もし、
国立学校→鞭
国立学校以外→平手
とかだったらなんだかすごい話ですが……
関連して、この紳士の語り口が、
女の子について語るとき→謎めかして語る
男の子に鞭打つことについて語る→謎を明らかにするように語る
というところなどをみると、紳士が男性原理とか父性原理を奇妙な形で表しているようにもみえました。
あと個人的な印象なのですが「姉妹」のフリンと「遭遇」の紳士と「アラビー」の「ヴィドック回想録」を所持していた神父がなんとなく重なりますね。
この三作は「ぼく」が語り手ですが、彼らは「ぼく」年配の父的・教師的存在として表れているような気がしました。いい意味でも悪い意味でも。
また、この三作は「父母(兄弟)の不在」という面でも共通していると思いました。
(たぶん「ぼく」は同一人物)
ばる
とりあえず目標の『Two Gallants』まで読みました。
『イーヴリン』『レースの後に』『Two Gallants』は少年の話じゃなかった。
しかし、『イーヴリン』は女性主人公ながらイタローさんの言うような父性原理の表現がモロに出てくる。暴力や折檻(イーヴリンは殴られたりはしてないが、暴力的な父親にとらわれている)が関わっている。イーヴリンが最後駆け落ちに揺らいでしまうのは興味深いです。
『レースの後に』は今までの作品の中では一見華やかで、ちょっと異色に感じました。欧米連合みたいなのは、何を意味しているのか?
『Two Gallants』は一番気になった作品で、「二人の色男」とか訳されていますけど、レネハンはコーリーと一旦別れたあとの描写を見ても、華やかな色男には感じませんな。ふたりの男が女性を利用して何を企んでいるのか、イマイチ判然としません。最後にコーリーが金銭を受け取ったということのみ書かれています。
ここまで最初の『姉妹』以外は金貨とか金銭の話が必ず登場していますね。6ペンス貯金したり7シリング渡したりとかポケットの中でペニー貨が6ペンスとぶつかったりとか。金銭が何を象徴しているのか、登場人物たちが金銭と引き換えに何を得ているのか(もしくは失っているのか)気になりました。
リクトー
>金貨とか金銭の話が必ず登場していますね
鋭い指摘ですね。
最後の一つ手前の短編にも会計係という単語が出てくるんですよ
イタロー
ジョイスは日本のモダニズムにもすごい影響がありますよね。
『レースの後に』の大勢でわちゃわちゃやってる雰囲気は横光利一とか太宰治にかなり影響与えてるんだなあ~と納得しました。
ばる
二枚のペニー貨が僕の手から落ちてポケットの中の六ペンスにぶつかった。僕は中二階の端の方で消灯だと叫ぶ声を聞いた。ホールの上部はもう完全に暗かった。
闇の中を見上げながら、虚栄心に駆り立てられあざ笑われた人間、それが自分だと僕は考え、苦悶と怒りに僕の目は燃え上がった。
『アラビー』の最後はこんな感じで、虚栄心の象徴みたいなんかな。もっと深く考えた方がいいか。
リクトー
怒りは最初の「姉妹」でも出てきます
ばる
少年は飯食ってるときコターのじいさんに怒りを感じてたか
リクトー
「出会い」は鞭打ちの話も出てくるし、怒りは罪というテーマと結びついてます
イタロー
うろ覚えだけど連想したのはキリスト教の修行に自ら鞭打って耐えるものがあった記憶
これかな
これと同一か忘れましたが車谷長吉が小川国夫の短編を評した文章で知った記憶
リクトー
モチーフ間の関連もあるだろうなぁ。
金銭と罪は切っても切れない
イタロー
たしかに、モチーフが繰り返されるところがあるからか、読んでいるとふいに既視感におそわれて、何回か「あれ、この話さっきも出てこなかったか?」となりましたね エピソードも人物も(この作品内での人物再登場とかはそんなにないような気がしましたが)
イーヴリンの母の叫び
Derevaun Seraun! Derevaun Seraun!
意味はわからないけど迫力がありますね
ばる
横道ですが、むかし『ラルジャン(金銭)』という映画があったな。原作はトルストイの『にせ利札』。
金銭と罪のつながりは、やはりキリスト教からきてるのかな。
イエス「天国に行きたいなら金銭や財産は手放しなさい」
イタロー
ふたりの男が女性を利用して何を企んでいるのか、イマイチ判然としません。最後にコーリーが金銭を受け取ったということのみ書かれています。
この部分、いろいろ考察できそうですね。
ただ少しばかり現なまを持ったどこかの適当なだまされやすい娘と出くわしさえすれば、彼だっていつかどこかの居心地のいい隅っこに落ち着いて幸せに暮らすことができるかもしれなかった。
レネハンのこのへんの考えと合わせると、
1、お金をせびったりして、半ば「ヒモ」生活みたいなことを企んでる
2、大なり小なり嘘をついて女性をたぶらかし、お金を詐取して、おさらばする
どちらにせよレネハンはコーリーの手腕に憧れて手本にしたいと思っているようですね。
ばる
1、お金をせびったりして、半ば「ヒモ」生活みたいなことを企んでいる。
2、大なり小なり嘘をついて女性をたぶらかし、お金を詐取しておさらばする。
ジョイスがアイルランドーーダブリン市民の当時の様子を書いていると考えると、ダブリンの人たちの精神性みたいなんがあらわてくるはずだ。
実際19世紀のアイルランドは飢饉や人口流出など苦難の時代であったようだが、このレネハンは、実質女性へ寄生までしないと生きていけないような、当時の貧しい男性たちの精神性をあらわしているのかもしれないな。
「イーヴリン」のイーヴリンも父親に依存されている。だがイーヴリン自身も最後の場面では決断できないし、レネハンはコーリーや女性に頼らないとうまくいかない。全体的に自立性のなさみたいなんが伺えますな。
アイルランドは20世紀の独立まで、長年イングランドに実際植民地化されてるイメージなんだけど、市民の自立性のなさみたいなのは、ここらへんも関わってるのかな。
リクトー
全体的に男がだらしない傾向がある
女はその被害にあわされてる
ただしそうでない短編もある
「下宿屋」がそう。この話では女が強く、男はそれに従う。
この短編集の特徴は、こうという傾向や性質を見つけたと思ったら、その逆が作中で見つかることが多いということにある
「痛ましい事故」は三幕構成で言う所のミッドポイントに当たると思われる。
VC後~
イタロー
VCにて、三島由紀夫がジョイスを絶賛しているわけではないというような旨述べましたが、近年の井上隆史さんなどの研究によると、三島はジョイスの文学から少なからぬ影響を受けているという見方もあるようです。
リクトー
イタロー
AFTER THE RACE の冒頭は原文だと以下のようになっています。
The cars came scudding in towards Dublin, running evenly like pelletsin the groove of the Naas Road.
縦書き文庫訳だと以下のように。
車は次々にダブリンに向け、ネイスロードの轍の上を弾丸となって滑るように飛んできた。
新潮文庫の柳瀬訳だと以下のよう。
車が次々とダブリン目指して突っ走ってきた。ネイス街道の腔綫(こうせん)に列なる弾丸さながらにすいすい走る。
岩波文庫の結城訳では、
何台もの車がダブリンに向かって飛んで来て、溝のようなネイス道路を弾丸のように、滑るように走った。
原文のgrooveという言葉は溝という意味で使われていますが、音楽ではレコードの溝から派生してノリや盛り上がりの意味で使われているようで、テンションの高い話の冒頭にこの言葉があるのは偶然にしてもウマいなと思います。
ジョイスの時代には音楽的な俗語「groove」があったのか?
エジソンがレコードの原型を発明した(1877)五年後にジョイスが生まれているので(1882)、ひょっとしたらナウい表現として文中にこっそり忍ばせたのかも!?
とここまで妄想して、オチにたわむれの拙訳をひとつ。
クルマはネイスロードをノリノリのバラダマみたくぞくぞくとダブリンめがけてブッとんでくる。
「カーレースの後で」について。該当作を一度お読みになってから目を通していただければ。
再び読み返していて気づいたのですが、
セグアンがご機嫌なのは思いがけなくも前もっていくつか注文があったから(彼はパリで自動車会社を始めようとしていた)
ケンブリッジで彼はセグアンに出会った。彼らはまだ知り合いの域をあまり出なかったが、世界のあちこちを見てきた人、フランスでも最大級のホテルをいくつか所有するという噂の人との交際に、ジミーは大きな喜びを感じた。
それから金に関しては--彼は実際、大金が自由になった。セグアンはたぶんそれを大金と考えないだろうが、
その上セグアンが見るからに富裕なのは間違いのないところだった。
セグアンは非常に洗練された好みを持っているとジミーは結論した。
セグアンは一座を政治に導いた。ここに全員趣味を同じくする話題があった。ジミーは、気前のよい酒が効いて、父親が葬り去った熱情が心に蘇るのを感じた。とうとう彼は鈍感なラウスも目覚めさせた。部屋は倍して熱くなり、セグアンの仕事は刻々難しくなった。個人的怨恨を生む可能性さえあった。機敏な主人は機会を捉えて人類のためにグラスを上げ、そして乾杯が済むと、意味をこめてさっと窓を開けた。
勝利はラウスかセグアンのいずれかにあるとジミーは判断した。
以上、縦書き文庫から引用
セグアンに対する評価はすべて噂かジミー目線です。そしてセグアンはその財産も曖昧なうえ、妙に盛り上げがうまい。ちゃっかりゲームに勝ちそうだし。
そこらへんのカラクリに気づいて、この話は「二人の色男」と対応・逆転・入れ子のような関係になっていることに気がつきました。
こういうはっきりとは明言されず、さりげなく示唆されている部分がとてもおもしろいと思います。
他にもいくつかなんとなく察したのですが、他の短編との関連も考えてみたいです。
ことり
やっと「二人の伊達男」まで読みました😓
書き方がどうとるべきか迷う微妙なところで止まるので、なかなか難しいですね。
ばる
『二人の色男』に出てくるハープ弾きが演奏する『サイレント、おおモイル』ってなんだろう。と検索していたら解説してくれているサイトがあった。
ケルト神話『白鳥になったリルの子供たち』に由来する詩。リル王には三人の息子と一人の娘がいて、この上なく愛していたが、後妻がそれに嫉妬して、子供たちを白鳥に変えてしまった。子供たちは数百年間を呪いのためにさまよい続け、人間の声で自分たちの悲しい物語を歌い続けた。呪いは「北の男と南の女を結び合わせぬ限り人間に戻れない」というものもあれば、「聖者の鳴らす鐘の音を聞けば呪いは解かれる」というものもある。前者は野生の白鳥が同情して謎解きをし、「北の男」「南の女」と呼ばれる山に白鳥の架け橋を作ったというパターン、北の王と南の女王が結婚するというパターンがある。後者は、キリスト教を布教しに来た聖パトリック(アイルランドの守護聖人)が鳴らした鐘によって人間に戻る。
ただし、主題としては神話そのものよりも、18世紀頃から芽生え始めたアイルランド人としての意識に重点を置いている。飢饉やイギリスへの同化圧力に翻弄されるアイルランドを、安住の地を求めさまよい続ける白鳥と重ね合わせているのである。
ジェイムズ・ジョイスの短編集『ダブリン市民』では、辻音楽師が《静かに、モイル》を奏でるシーンが出てくる。
イタロー
飢饉すごかったのですね……何回もある
ばる
彼らはナッソー・ストリートを歩き、それからキルディア・ストリートへと曲がった。クラブの玄関から遠くない路上にハープ弾きが立ち、小さな輪になった聞き手に演奏していた。彼は、時々新しく人が来るとその顔へ、また時々、あきあきもするので、空へすばやく視線を走らせながら、無頓着に弦をかき鳴らしていた。彼のハープもまた、彼女を覆うものがひざの辺りまで落ちてしまっているのに無頓着で、見知らぬ人たちの目にも主人の手にもやはりあきあきしているように見えた。彼の一方の手は『サイレント、おおモイル』のメロディを低音で奏で、他方の手は連なる音を繰り返し追うように高音部を走っていた。その曲の音色は荘重に豊かに響いていた。二人の若い男は、悲しげな音楽がついてくる中、話もせずに通りの端まで歩いた。
音楽が流れ、喋っていたふたりは沈黙する。ここらへんも好きですね。のちにひとりになったレネハンにはこのときの曲が呼び起こされ、心を支配されます。
一人ぼっちになった今、彼の顔は老けて見えた。彼の陽気さは彼を見捨てたようで、デュークス・ローンの柵のそばを通り過ぎる時、彼は手をそれに沿って走らせるがままにした。ハープ弾きの奏でていた曲が彼の動きを支配し始めた。柔らかいパッドを当てた足がメロディを奏でる一方、五本の指は連なる音を繰り返し追うように柵に沿ってむなしく変奏曲の音階をかき鳴らした。
イタロー
彼は自分の上流気取りが見掛け倒しであると装うために乱暴な口をきいた。
レネハンの態度ですが、複雑な表現ですね。
どうやって彼が暮らしていくという厳然たる仕事を成し遂げるのか誰も知らなかったが、彼の名からは漠然と競馬の予想が連想された。
なんだか生活もわからないところがあります。
ばる
たしかに複雑な表現だ。
人生で上流気取りが見掛け倒しであると装うことってなかなかない気がする。(なんか書いてても意味がわからない)
上流風に見せているが、本当は違うんだぜと周りにアピールする感じか?
・そもそも上流気取りする必要があるのか?
・上流風に見せて、粗野なアピールをする意味は?
レネハンは乱暴な口ぶりをして装っている。本質は粗野ではないんだろう。ただ上流ではないんだろう。
イタロー
というのも彼が入った後、話が途切れてしまったからだ。彼は顔が熱くなった。自然に見えるように頭の上の帽子を後ろに押しやり、ひじをテーブルに立てた。職工と二人の女工は逐一彼を吟味し、それから抑えた声で再び会話を続けた。
根っからの上流気取りは嫌がられる感じなのですかね。
まあ店内の雰囲気は変わりそうですね。
彼はぶらぶらしている遊び人で物語、リメリック、なぞなぞをしこたま溜め込んで武器にしていた。
この部分だとか、彼の名から🏇の予想が連想されるというのは、彼がリスキーな生活を送っているという暗示かもしれない。とすると彼の上流気取りも人にとりいったりウマいことやるための方法なのかもしれない。
柳瀬訳ではこうなっています。
品のありそうなこの風采は嘘なんだと示すために、ぞんざいな口ぶりで告げた。
なお原文
He spoke roughly in order to belie his air of gentility for his entry had been followed by a pause of talk.
ばる
ここまで読んでいると、レネハンは誰かに取り入ろうとするために体裁を整える。そのことしか能のない軽薄な男として描かれている気がしますな......(そんな自分に対する苦悩も見てとれますが)
ジョイスは『Two gallants』→ふたりの「伊達男」というタイトルにしてますが、これアイロニーちっくなんだよなあ...
イタロー
この作品集、全体として、皮肉が大盤振る舞いされてる印象です