ソーニャの視線
マルメラードフは娘のソーニャに酒代(さかて)をねだりに行く。これはどうしようもなさの極みである。どうしてかというと、ソーニャは家計を助けるために泣く泣く自分の身を売っていて、それは元はといえばマルメラードフが働かないことが原因だからである。自分の娘に身売りをさせる原因となっている当人が、なおかつ酒のために娘にお金をもらいに行くというのはどうしようもなさの極みである。このようなどうしようもなさの演出はやはりドストエフスキーのうまさを感じさせる。ソーニャはこの無心を拒否することができるはずである。そして責めることもできるはずである。しかし、ソーニャは拒否もしないし、責めもしない。無言でじっと父親を見つめてお金をあげるのである。これがまたマルメラードフにとっては耐えられないこととなる。ここでポイントとなるのはソーニャの視線である。この視線があるかないかでここの描写は全く異なるものとなる。マルメラードフは「無言で渡すんだよ」と「無言」を強調しているが、「無言」が際立つのは「視線」があるからである。ソーニャは無言でかつ視ないで渡すこともできるはずだが、ソーニャは視る。このことにより、マルメラードフは「無言」というメッセージを受け取ることになる。視線があるならば何かを言うはずだ、しかし何も言わない、だからこそ無言がメッセージとして残る。視るということは何らかのコミュニケーションを相手と取っている、取ろうとしていることだからである。ソーニャの視線には多様なメッセージがこもっていたと考えられる。軽蔑などのネガティブなものはもちろんのこと、慈愛などのポジティブな要素もそこにはあったかもしれない。ここでの視るということは簡単なことではない。それは父親のどうしようもない姿を見なくてはいけないからである。できることならそんなものは見たくない。だがソーニャは視る。結果的にそのことがマルメラードフに強い印象を残す。なぜここで視ることが可能になるのだろうか。それはソーニャが視線に「自分」をこめることができているからである。ここでいう「自分」とは上で書いたような自分の感情と言ってもいい。これをこめることができれば、相手の醜態をダイレクトに受けずに済む。自分をこめている分だけ、それがスクリーンとなり防御壁となるのである。これはつまり、見ているが見ずに済むということである。一方、視線に自分をこめることができなければ、防御壁を持てずに相手の醜態をダイレクトに喰らうことになる。これは辛い。だから視ない。これは見ていないが見ているのである。このことはもう自分で選べることでなく、その人間のタイプである。視る人間か視られる人間か。この主題に焦点を当てた作品が、夏目漱石の『彼岸過迄』である。最後のシーンで主人公は言う。「自分は見られる人間でなく、見る人間になりたい」と。他の作品も鑑みるに夏目漱石自身が「視られる人間」であったと考えられる。そしてソーニャは少なくともこのシーンに限っては「視る人間」となっている。