オリジナリティは嘘
「完全な」形での、すなわち「無から作り出した」ようなオリジナリティは存在しない。どのような作品にも影響元はあるし、どのような名作にも模倣元はある。例え題材が見たことの無いようなものであっても、どこかを探せば必ずその題材を元にした作品がある。そもそも人々が考えるような意味での「オリジナリティ」、つまりまったく自らの内部にある独創的観念とはありえない。そもそも人間が自らの独自の自意識を獲得するためには、やはり環境、親だとか友達だとか先生だとかの影響を受けるわけであり、哲学者や芸術家が独自の哲学や作品を作るにしても、やはりその技能を教える教師がいる。哲学者も芸術家もやはりその教師の影響を受ける。 かりふぁ.icon同一性に関する問いですね。厳密に考えるならば一度自己外化した作品や表現物は同時に自分の過去に下がるので、自分の表現物や作品によって今の自分の思惟であるとかが媒介されているのか、他人の言葉によってであるのかみたいなことを考えると結局は無限に分離できます。今の自己が何に媒介されているかもわからないので作品を作成している時も同様です。マナーの悪い奴を脳内妄想でセルフスカッとジャパンしている時とか、校庭の石ころの慎ましさに感情移入した時とか、自分の自分でなかった部分がふと現れることがありますので、特段、一度自己外化した作品のオリジナリティに関する批判を徹底する必要もないと思います。社会や他者と付かず離れずなのが自己であり、いずれにせよ、自己は自己なので。 塩ミルク.icon後で結論を書こうと思ったいたのですが、すっかり失念してしまっていました。私がこれで念頭に置いていたのは「過剰なまでにオリジナリティを求める創作者とその観客」なのですが、「何も無いところから生まれるようなもの」という創造性としてのオリジナリティは全くもって虚構であり、そのような虚構としてのオリジナリティを求めてしまうようなことは創作において不健康だ、という話をしたかったのです(後出しジャンケンとなってしまいますが)。ほとんどの芸術的なもの、絵画や文芸彫刻などといったものの中で、傑作と言われるものでもやはり何かしらの影響はあるわけです。ですから、「これは○○のパクリだ」などと言ったことを(他人からにしろ自分からにしろ)気にしすぎて、全く自分の内側から作られたものだけをオリジナリティとするような純化主義は創作には不必要である、というようなことを言いたかったのです。
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かりふぁ.icon自己同一性形成の段階においてはオリジナリティに固執する段階というかそういった試みはどの人生の段階にあってもあるうると思います。創作活動においてはどれほどまでか自己を拡大していろんな影響を受けるかみたいな社会性に駆動されるようにみえるあり方と、自己の経験に根ざした創作を継続することで社会の方に投げかけるようなあり方があり、前者を後者が批判するみたいなことで自分の活動を正当化する時があるんじゃないでしょうか。いずれの分野においても。社会の視点においては、さきがけになるか波風になるかといったところでしょうが。
cman.icon心理学における自己同一性(アイデンティティ)の話であれば、今話している「独自性」「独創性」ってよりは自己像をどう形成するかという話で、たしか基本戦略は「周りからどのような像を提示されるか」を確認するみたいな……外界からのフィードバックによるはずです。なので“オリジナリティに固執する段階”というのは適切ではないかも。(本によって違うかも)(外界にあるものを摂取して自己像を形作る、という構造を創作に適用する、みたいなかりふぁさんの要旨に反論するものではありません) なるほど、ワイは自己同一性と作品の独自性に強い関連を見出しているなぁ
塩ミルク.iconこれは私の個人的な経験であって普遍的なものとは言えないかもしれないのですが、何かの創作を始めたばかりの時は、「自分だけのものを創作したい」という感覚がありました。どこまでものを創作したとしても、どこかで何かしらの影響が見える、何かしらの模倣に見える、ということがありますし、場合によっては「こんなものは『パクリ(模倣とはまた違った意味を持っていそうです)』に過ぎない」のでは無いか、そう言われてしまうのではないか、と恐れて自分の創作活動を否定してしまうことが私だけでなく私の周囲でもありました。ただ、これが心理学的云々の話であるかはよく分かりません。
かりふぁ.icon創作活動の否定かぁ、悟りとか事事無礙まで行くじゃないけど、ある程度抽象的なフォーマットで作品を見れるようになれば大抵の創作は定石を踏襲してそう。
塩ミルク.icon自身の経験に根ざした創作を継続する、ということにしてもやはり創作活動は自己の外側の現実に向けて行われるものであり、その根本となる経験はやはり自己の外側から自己の内側へと到来してきたものがその基礎であるとは思います。内面的な苦しみによってもたらされる経験というものもありますし、これを全て「外的な契機を持って発せられたものだ」とすることは決定論的、つまりそれぞれの個々の芸術が持つ限定的な部分でのオリジナリティすらも否定してしまうようなことになってしまうでしょう。そうだとしても、やはり創作が向けられるのは現実の紙でありキャンバスでありスマートフォン、パソコン、石などであり、創作活動は外的な現実のものに向けられたものとして考えられるべきだと思われます。そして、創作が外化の活動として捉えられるなら、外に向けて自己を翻訳するための技能として、やはり模倣や影響と言った一見オリジナリティに反するようなことが必要となってくるのではないでしょうか。むしろ模倣や影響を抜きにして作り出されたような創作物は、「どこかで見た事のあるような」けれど「それよりも質が悪い」ようなものになってしまうのでは無いでしょうか。(質問に回答できているかは分かりませんが)
コミュニケーションメディアとしての作品を見るのであれば、内言
本当に後出しジャンケンというか、早く書けばよかった話なのですが、これは自己同一性の話と言うよりかは、「創作者はどのようにして創作すべきか」みたいな所を私は主な論点として考えていました。ただ、創作者の創作、というのはその人のアイデンティティ(自己同一性)に深く関わってくるものですから、全く論点が違うという訳でもないと思います。
なるほど