アープラ史(民明書房版)
#加筆歓迎
怒られそうならやめます
略歴
渡来人たちから学ぶ集団としてアープラの大元ができあがる
仏教部メンバーを中心に四天王寺の戦いに蘇我氏側に参加し、朝廷公認になる
当時の短歌研究会メンバーにより万葉集が作れられる
また、アープラ民の稗田阿礼によってアープラの存在は歴史上の表には出さず秘密結社になることが決まり、歴史書には掲載させないように方針が決まる
大江広元ら公家衆が鎌倉に移り、関東にもアープラが形成、このときに吾妻が訛ってアープラと呼称されたのが名前の由来と言われる
こちらは東アープラと呼ばれて朝廷に属した方は西アープラと呼ばれる
西アープラと東アープラの対立から朝廷と鎌倉幕府の対立になり承久の乱が勃発
西アープラが衰退する
東アープラは武家文化を吸収する
関東管領上杉氏によって東アープラ関係者に足利学校生徒が加わる
足利義満によって西アープラが復興する
戦国時代になり、東アープラは後北条氏の庇護下になる
西アープラは室町幕府と共に殉じたが、細川幽斎らとともに一部のメンバーが生き残った後に豊臣秀吉の庇護下になる
東アープラと西アープラの対立から戦端が切られて小田原征伐になる
戦後の東アープラは徳川家の支配下になる
関ヶ原と大坂の陣により、江戸時代になり東アープラの最盛期を迎えるが西アープラは規模が縮小する
東アープラに平賀源内らを迎え入れる
蛮社の獄のさいに、幕府から東アープラが敵視され弾圧される
その際に長年の対立相手だった西アープラからの援助の手が加わり西側に友好的に合併される形で東西アープラが1つになる
開国後、各地のアープラ民が交流や海外留学を通じて倒幕の機運が高まる
明治維新後、日本の黒幕として教養人の社交場として活躍する
戦後に戦時協力をしたと疑われて、アープラに解体命令がくだされる
昭和期にアープラ民が離散し、危機的状況になる
平成になりインターネットの登場でかつてのアープラ民の意思を継いだ人たちが2chを中心に議論をする
その歴史を聞いた骨丸氏によってオープンチャットにてアープラを復活させる