ほのかなるもの
ゆめはうつつにあらざりき、うつつはゆめよりなほいとし、まぼろしよりも甲斐なきはなし。
夢は現実ではない。現実は夢よりもいっそう愛しい。幻より甲斐のないものはない。
幽かなるこそすべなけれ、美しきものみなもろし、尊きものはさらにも云はず。
幽かであることはつらい。美しいものは全て脆い。尊いものはいうまでもない。
ひとのいのちはいとせめて、日の光こそすべなけれ、麗かなるこそなほ果敢な。星、月、そよかぜ、うす雲のゆくにまかする空なれども。
人の命にとってはとても切実に、日光がつらい。麗らかだからこそいっそう果敢に。星、月、微風、薄雲の過ぎるにまかせる空だけれども。
ふりそそぐものみなあはれなり、雨、雪、霰、雹に霙、それさへたちまち消え失せぬ。
降り注ぐものは全て哀れだ。雨、雪、霰、雹に霙、それらは一瞬で消えてしまう。
土に置く霜、露のたま、靄、霧、霞、宵の稲づま、ほのかなれども水陽炎のそれさへ頼むに足るものなし。
土の上にできる霜、露の玉、靄、霧、霞、宵の稲妻、ほのかだが水陽炎も頼りにできるものはない。
煙こそあはれなれども、捉へられねばよしもなし。山家にゆけど、野にゆけども、水のながれを堰くすべもなや。
煙は哀れだが、捉えられなければ無意味だ。山野にいっても、野にいっても、水の流れを止める術はない。
ちちろと歎く蓑虫も、蛍の尻もみな幽けし。なまじ寝鳥の寝もやらぬ春のこころの愁はしさよ。
ちちろと嘆く蓑虫も、蛍の光も全て幽かだ。中途半端に寝ている鳥の眠りきれない春の心の哀愁よ。
色ならば、利休鼠か、水あさぎ、黄は薄くとも温かければ、卵いろとも人のいふ。 色なら、緑みがかった中明度の灰色、水色がかった浅葱色、黄色は薄いが温かいので、卵色とも人はいう。
水藻、ヒヤシンスの根、海には薔薇いばらのり、風味あやしき蓴菜は濁りに濁りし沼に咲く、なまじ清水に魚も住まず。
水藻、ヒヤシンスの根。海には薔薇のり。風味が妖しいジュンサイは濁りに濁った沼に咲く。なまじ清らかな水には魚もすまない。
花といへば、風鈴草、高山の虫取菫、蒜の花、一輪咲いたが一輪草、二輪咲くのが二輪草、まことの花を知る人もなし。
花といえば、風鈴草、高山の虫取菫、蒜の花、一輪咲くのが一輪草、二輪咲くのが二輪草。まことの花を知る人もない。
葉は山椒の葉、アスパラガス。蔓は豌豆、藤かづら、芥子に恨みはなけれども、その葉ゆゑこそ香も清く、ひとに未練はなけれども、思ひ出のみに身はほそる。
葉は山椒の葉、アスパラガス。蔓は豌豆、藤葛、芥子に恨みはないが、その葉のせいで香りも清らかで、人に未練はないが、思い出だけに身は弱ってしまう。
あはれなるもの、木の梢。細やかなるもの、竹の枝、菅の根の根のその根のほそ毛、絹糸、うどんげ、人蔘の髯。
哀れなもの、木の梢。細やかなもの、竹の枝、菅の根の根のその根の細毛、絹糸、優曇華、人参の髯。
はろかなるもの、山の路。疲れていそぐは秋の鳥、とまるものなき空なればこそ、こがれあこがれわたるなれ。玻璃器のなかの目高さへ、それと知りなば果敢なみやせん。
遥かなもの、山道。疲れながら急ぐのは秋の鳥、留まる場所のない空だから、焦がれて憧れて渡るのだ。玻璃器のなかのメダカさえ、それと知れば果敢になるだろうに。
巣にあるものはその巣をはなれ、住家なきもの家をさがす。栗鼠は野山に日を暮らし、巡礼しばしもとどまらず。殻を負ひたる蝸牛はいつまで殻を負うてゆくらむ。
巣にあるものはその巣を離れて、住み家のないものは家を探す。リスは野山で日を暮らし、巡礼は一時も留まらない。殻を負っているカタツムリいつまで殻を負っていくのだろう。
かへり見らるる船のみち、背後の花火、すれちがひたる麝香連理の草花の籠、ひとの襟あしみなほのかなれ。
かえり見られる船の道、背後の花火、すれ違った麝香連理の草花の籠、人の襟足、みなほのかだ。
笛の音の類、朝立ちの駅路の鈴、訪ふ人もなき隠家のべるの釦のほのかに白き、小夜ふけてきくりんのたま。
笛の音の類、朝立ちの駅路の鈴、訪れる人もない隠れ家のベルのボタンはほのかに白い。夜が更けて聞く鈴玉の音。
影はなによりまた寂し、踊子のかげ、扇のかげ、動く兎の紫のかげ、花瓶のかげ、皿に転がる林檎のかげはセザンヌ翁をも泣かすらむ。
影は何よりも寂しい。踊り子の影、扇の影、動く兔の紫の影、花瓶の影、皿に転がる林檎の影はセザンヌもなかせているだろう。
夏はリキユウル、日曜の朝麦藁つけて吸ふがよし。熱き紅茶は春のくれ。雪のふる日はアイスクリイム。秋ふけて立つる日本茶、利休ならねどなほさら寂し。
夏はリキュール、日曜の朝に麦わらをつけて吸うのがいい。暑い紅茶は春の暮れ。雪の降る日はアイスクリーム。秋の更けて立てる日本茶、利休ではないがなおさら寂しい。
味気なきは折ふしの移りかはり、祭ののち、時花歌のすぐ廃れゆく、活動写真の酔漢の絹帽に鳴くこほろぎ。
味気ないのは折節の移り変わり。祭の後。流行り歌はすぐ廃れていく。活動写真の酔った男のシルクハットに鳴くコオロギ。
さらに冷たきもの、真珠、鏡、水銀のたま、二枚わかれし蛇の舌、華魁の眸。
さらに冷たいものは、真珠、鏡、水銀の玉、二つに割れている蛇の舌、花魁の眼差し。
しみじみと身に染みるもの、油、香水、痒ゆきところに手のとどく人が梳櫛すきぐし。こぼれ落ちるものは頭垢ふけと涙、湧きいづるものは、泉、乳、虱、接吻くちづけのあとの噎、紅き薔薇の虫、白蟻。
過ち易きは、人のみち、算盤そろばんの珠。迷ひ易きは、女衒ぜげんの口、恋のみち、謎、手品、本郷の西片町、ほれぼれと惚れてだまされたるかなし。
忘れがたきは薄なさけ。一に好色、二に酒の味あぢ、三にさんげの歌枕、わが思ふ人ありやなしやと問ふまでもなし都鳥、忘れな草の忘れられたるなほいとし。
浅くとも清きながれのかきつばた。偽れる、薄く澄ませる、また寂し。まことなきものげに寂し。まことあるものなほ寂し。しんじつ一人は堪へがたし。人と生れしなほ切なけれ。
思ひまはせばみな切な、貧しきもの、世に疎きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足りぬ、果敢なく、味気なく、よりどころなく。
頼みなきもの、捉へがたく表現あらはしがたく、口にしがたく、聴きわきがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮ずれば仏ならねどこの世は寂し。
まんまろきもの、輪のごときもの、いつまでも相逢はず平行ならびゆくもの、また廻めぐるもの、はじめなく終りなきもの、煙るもの、消けなば消けぬがに縺れゆくものみなあはれ。
芸は永く命みじかし、とは云ふものの、滅び易きはうき世のならひ。うたも、しらべも、いろどりもゆめのまたゆめ。
うつつをゆめともおもはねど、うつつはゆめよりなほ果敢な、悲しければだぞなほ果敢な、幻よりもなほ果敢な。
現実を夢とも思わないが、現実は夢よりもなお果敢なものだ、悲しければこそなお果敢なものだ、幻よりもなお果敢なものだ。