なぜ勉強はポジティブなものとして捉えられるのか
なぜ勉強はポジティブなものとして捉えられるのか。まず考えられるのは、勉強が「力」を持つからである。ここでいう力は大きく2つある。社会で出世していく力と現実に働きかける力である。 社会で出世していく力とは、昔の中国の科挙制度を挙げるまでもなく、現代においても高校入学、大学入学、資格試験などに合格するためには勉強が必要となる。そしてこれらの合格は、自分の職業選択や出世に大きく関わってくる。例外も多くあるが、基本的には古今において、社会で出世していくためには勉強が必要となるのである。
現実に働きかける力とは、勉強をすることで直接的に対象に働きかける力をつけるということである。例えば、古代においては数学の知識を持つことが直接的に測量や建築を可能にしてたし、現代においても建築には建築家が必要であり、建築家になるためには勉強が必要である。現代では分業が進み、実際に家を建てるのは建築家ではなく大工の仕事であるが、一人前の大工になるためには勉強や訓練が必要となる。ここで身体的な訓練と勉強とはどう考えるかという興味深い問題が出てくるが、それはまた別の機会にしよう。
資格試験というのは、この両方に関わってくると考えられる。つまり、現実に働きかける力を身に付けると同時に、社会に対して能力の保有を示すことになり、社会的地位の確保へとつながる。
これらの勉強観をまとめて言うならば、有用である、つまり役に立つということである。勉強は直接的に役に立つからポジティブなものだというわけである。それでは一見直接的に役立たないような勉強はどう考えるか。例えば、哲学、文学、歴史などの勉強である。いわゆる文学部に属するような勉強がそうなのであるが、これらの勉強はポジティブなものといえるのだろうか。
確かに文学部で学ぶような勉強があまりポジティブなもののと受け取られないケースもよくある。これも人によりけりではあるが、文系よりは理系、文系でもより実学的な経済や経営の方を学んでほしいという親の話は、たまに聞くことがあるしその気持ちはわからなくはない。大学院への進学にしても、理系ならばそれこそ出世に繋がってくる可能性もあるが、哲学で大学院に行くとなるとより可能性を狭めることになると受け取られることもある。一時期前に「文学部不要論」という話が出ていたが、これはその最たるものであるといえよう。
これに対して「いや文学部は必要だ」という反論を試みる際の方策としては、間接的な有用性を挙げるというものがある。もちろん直接的な有用性があれば、それを先に論じるのであるが、それが無ければ間接的な有用性を論じるしかない。それは例えば、「哲学を学べば、思考力がつく。それは全ての学問に有用なものとなる。」「文学を学ぶことで感情を養うことができる。」といったものである。フランスでは大学入試となるバカロレアで必ず哲学の問題が出題されるため、大学入学以前の教育で哲学が必修になっている。おそらくこの土台となっているのは、間接的な有用性であろう。社会的システムとして公的に取り入れる以上は何らかのロジックが必要となるからである。この哲学や文学における間接的な有用性は正しいと思う。しかし、間接的な分だけわかりにくく伝わりにくい所があり、ウィークポイントとなってしまうのは現実問題として否めない。特に現代において、数字が尊重されるというのは直接性が求められているからであり、そのようなものが尊重される風潮があるからである。
だが他者を説得する際に、間接的な有用性に頼らざることは致し方無いにせよ、より本質的な議論としては有用性に頼らないという方向も探求する必要がある。