なぜ人はボケたがるのか
なぜ人はボケたがるのか。
ツッコミをするよりもボケをする方が簡単、あるいは目的に適しているという仮説 人がボケたくなる衝動
“ボケ”にはどういった機能,意図があるのか、どういった場面で使われるかの考察 などについて。
ボケの原義
「ボケ」は、冗談を言う、話題の中に明らかな間違いや勘違いなどを織り込む、笑いを誘う所作を行う、などの言動によって、観客の笑いを誘うことが期待される役割である。ボケは、もともととぼけ役と呼称されていた。芸席において紹介のつど「つっこみ(役)・とぼけ(役)」と称されていたことが、のちに「つっこみ・とぼけ」→「つっこみと、ぼけ」のように転じた。[要出典]
――wikipedia:漫才 ボケとツッコミ項より引用
ボケは「とぼける」あるいは「すっとぼける」が語源だと言われている。
wikipediaの説明にもあるように、ボケとは“明らかな間違いや勘違い”が盛り込まれている。
ここで疑問なのは、どうして周囲の人は、“明らかな間違い”だと気づけるのだろう?
逆に考えると、次のことが言える。
ボケるには、正しいものの共有が必要。
ということだ。正しいものが明らかでない場合、間違いもまた明らかではなくなる。 これはツッコミの仕方でも説明出来ると思う。
代表的なツッコミとして聞かれる、「なんでやねん」を例にしよう。
これを標準語にすると「なんでだよ」。使用される場から意図を充填してみると、「なんで(そうなったん)だよ」「なんで(そうしたん)だよ」であることが多いと思う。
「なんでそんなことをしたんだ?」と聞くには、“そんなこと”が“この場において不適切な流れである”という認識が必要だ。
では、“適切な流れ”とはどこから出てくるのか? 多くの場合、「フリ」がそれを示している。
フリとボケ
(前略)
「だからもう、流石にな、今日中に。千円返してもらってもいいか?」
「あのー、さ」
「うん」
「俺、子供の頃から口笛ばっか吹いてて」
「うん」
「最近、口笛でビブラートできるようになったんだよね」
「……うん、ちょっと話を逸らせるような話題じゃないな。千円返してって言ってんの」
あまり言いたくないが、貸した千円を返してほしい、という趣旨に対して、ズレた話題を語ることで笑いが起きている。 この“千円を返してほしい”と真面目かつ真剣なトーンで話すのがボケのためのフリになっている。
この話題に乗るのであれば、誰しも“千円を返す/返さない”について話すのだろうと予想する。
また、話題の提供者が真剣なのだから、当然返す相手も真面目なトーンで話すはずだ、と頭の中で予測するのだ。
しかし、ボケ役の畠中は“全く関係ない自分の話”を始める。これが頭の中の正解との“ズレ”――“明らかな間違い”であり、ボケになる。
巧妙な点は、ボケ役の畠中の喋り口調がふざけたものではなく「今にも千円の話題に触れそうなトーン」だということにある。
元の適切な流れを意識させながらズレたことを言う、それを指摘する(ツッコミ)で笑いが起きるのだ。
大雑把に一般化すると――
元の適切な流れさえ意識できれば、そこからわかりやすくズレることでボケることが可能と言える。
流れとボケの例
最も簡素(ベタ)なものは次の例。
例①
A「お前、何座?」
B「餃子」
生まれの12星座を聞いているので、それ以外のことを答えるのはズレている。
しかしここでも、ある程度元の流れを汲むという試みがなされる。
例えば――次のようなやり取りは滅多にされない。
例②
A「お前、何座?」
B「カナダ」
このように、完全に逸脱すると“話が通じない”という印象になる。
これは“ズレ”の難しさだ。ボケる場合は、ある種ボケであるという目安、「正解はわかっていて別のことを言っている」という合図が必要になる。単に全く別のことを言えばいいということではない。
前者では「星座を答える時は“〇〇ざ”と答えること」を理解しているという合図として、ボケのワードも「ざ」で終わるものをチョイスしている。
こういった暗黙の了解を汲み取ることによってボケは成り立つ――これを利用すると、次のようなやり取りもできる。
例③
A「お前、何座?」
B「餃子」
A「なんでだよ、違くて……」
B「あー、じゃあ、炒飯」
これは恐らく、ボケとして成立する。前の返答“餃子”でボケであることを示し、中華料理という共通点を持つ炒飯をチョイスすることで“これもボケである”と知らせている。(いわゆるかぶせボケ――もちろん下手だが)
こういった“暗黙のルール”を敷いていくのがボケの醍醐味であり、楽しさであるとも思える。
ツッコミの難しさ
ところで、先の例に、Aがツッコむにはどうすればいいだろうか。
指摘すべき点はいくつか思い浮かぶ。
・まず、自分(A)は星座について話している
・餃子は星座ではない
・炒飯も星座ではない
・そもそも中華料理を答えてほしいわけではない
・なぜ餃子が違うのに炒飯は正解だと思ったのか
さて、これをどのような順番で、あるいはどれを優先して指摘するべきだろうか。
思いついた順番に喋るとこうなる。
B「あー、じゃあ、炒飯」
A「いやだから星座について聞きたいんだって、餃子も炒飯も星座じゃないじゃん。中華料理のこと聞いてんじゃないのよ。てかなんで餃子違くて炒飯はいけると思った? それが知りたいわ」
長い。ごちゃごちゃうるせえなこいつ、という印象を受ける。
これが許されるのは“こういう芸風”の人間だけであり、また難しい部類のツッコミである。素人がすべきではない。
これではツッコミというより、“長々訂正してくる人”だ。ここにツッコミの難しさがある。
僕が考えるに、ツッコミというのは、短く、かつ適切に皆が思ってる間違いを指摘する人だ。
一つずつ丁寧に指摘するとどうしても長くなり、しかも一つ一つは“皆思ってること”なので、面白みがなくなってしまう。
しかも、反応するまでの間も重要である。すぐに反応出来ないと(当たり前のワードでは)笑いが少なくなるという傾向がある。
つまり、ツッコミを行うには、瞬時に適切な取捨選択を行い、かつボケの敷いた“暗黙のルール”を明示化して、短く伝えなければならない。
これは非常に多くの能力を要求される。ある程度のルールに従っていれば可能なボケとは大違いである。
こういった要求能力の違いがボケ過剰、ツッコミ不足の環境を作り出すように思える。
ツッコミとボケの前提
また、少しズレるが、ツッコミなしでボケることは可能だが、ボケなしでツッコミをすることは出来ない点も注目したい。
ボケるには、“元の流れ”があり、それを汲みながらも“明らかな間違い”を行えば良い。
ツッコミは、“明らかな間違い”を見つけ、それを適切に指摘しなければならない。
table:ボケとツッコミの分解
前提 行為
ボケ 予測された“適切な元の流れ” “明らかな間違い”“ズレた言動”
ツッコミ 変な部分,“明らかな間違い” 適切な指摘,代弁
ボケには“普通の会話の流れ”さえあれば前提を満たせるが、ツッコミは“明らかな間違い”という前提を満たすのが難しい。
例えば今、「ここで表使う必要あった???」とツッコむとする。これは表を使うこと、を間違いだと指摘している。
しかし、表の必要性があるかないか、とは主観を含み絶対ではない。
これを読んでいる人が「表に必要性はありそう」と思っていたら、その人の中では、ツッコミで笑いが起きることはないだろう。
絶対的(明らかな)間違いというのを普通の会話から見つけるのは困難であり、このことがよりツッコミ不在感を高めている。
ボケへ導く衝動
ボケること単体での考察をしてみよう。
前述の通りボケとは前提知識等から導かれる暗黙のルールに従い、新たなルールを敷いていくものだと僕は考える。
ツッコミとはそのルールを汲み取り、短く適切に伝えることだ。
こう考えた時、ボケには一つのカタルシスがあるように思う。“理解される”というカタルシスだ。 ツッコまれることもそうだが、笑いが起きるには“どうズレたか”がその場で瞬時に理解される必要がある。
例えば、このような場合はどうだろう。
A「何座?」
B「炒飯」
A「いや星座でも餃子でもなく炒飯?確かに同じ中華だけど」
これは一見、例②のように、関係のないことを言っているように思える。しかしここでツッコミが入ることで説明がなされる。
これは例③のボケを一段階スキップしたものである。
この場で必要な共通知識は「星座を聞かれて“餃子”と答えるボケがある」ということだ。
しかし、ボケたBからはその共通知識は提示されない(暗黙のルール)。ここに“言ってないことを理解される”、あるいは“同じことを知っている”という快感が生まれる。
ツッコミがない場合も同様だ。笑いが起きたなら、それは暗黙のルールが理解されたとしか思えない。
理解されること、これは高度な知識がある人間ほど、快感を覚えるのではないか、と僕は考える。
知識が必要なボケの価値
どこかで話されていると思うが、高度な知識を持つ人は、会話に苦労することがある。
前提となる知識が深まり、語彙の説明が必要になるからだ。
簡素な例としては「連立方程式について話したいが、相手はXもYも知らない(その性質すら)」ということが起こりうる。
こうなると、自身は連立方程式について話したいのに、会話はXやYの説明に終始する。これらは非常にストレスであり、スムーズなコミュニケーションとは言えないだろう。
高度な知識を持つ人は、相手の前提知識がどこにあるか、どういったところまでなら説明せず話せるか、わかってもらえるか、そういうことを伺いながら話すことになる。
さて、ここで、こういうやりとりがあったらどうだろう。
B「お腹すいたなー」
A「なんか食べないの?」
B「いや、ベルは鳴ったんだけど、まだご飯が出てこなくて。」
A「パヴロフの犬かよ」
この時点で、AとBの間にはパヴロフの犬を知っているという前提がある。“ボケ”と“ツッコミ”のラリーだけで、誰も不幸にせず前提知識の共有が出来た。
例えばこれを「パヴロフの犬って知ってる?」から入ることも可能だろう。しかしその場合、話が広がらない(なんかきまずい感じになる)可能性も高い。
ボケた場合、知らなかったとしても「なにそれww」で一笑い取れる可能性があり、しかもその後“パヴロフの犬”の説明すらスムーズに行えるのである。
しかも、ツッコミがこうだったらより良い。「え、Bさんって古典的条件づけされてんの?」
この時、前提知識の共有は必要がなく、しかも互いにある程度の情報を知っている、ということが示され、それが“笑いとして理解されている”という状態だ。
これは“理解されない”という経験がある人たちにとって、得難いものだと思う。
だからこそ、僕らはボケたがり、共通部分があるかの刺激を行うのかもしれない。
いつか、ほんとうに“同じ”話が出来ることを信じて――
結論,まとめ
人はなぜボケたがるのか
“ズレ”ることの容易さ
元の流れさえ意識していれば、ズレればボケれる。
ツッコミとの比較
ツッコミよりボケの方が前提条件を満たしやすい。
また、技術としても、ボケの方が易しい。
理解される快感を得る
共有しているという感覚(所属感)
理解されない経験→理解される充足感
共通部分を得て、コミュニケーションに役立てる
……って、これだけ書いてんのに10行以内でまとまるんか~~~い!!!!!!
ENDcman.icon