つまり映像の文化というものは、20世紀以降の我々の思考みたいなものに深刻な影響を与えてるきがせんでもない
ここで私が提起したいのは、リズム、ビート、パルス(オン/オフオン/オフオン/オフという一種の律動)の問題である。それらは視覚的空間の安定性を破壊し、その特権を奪うことを本性としている。なぜなら、これから述べるように、視覚性を支えていると思われる形態=形式の統一性そのものを解体し、溶解させてしまう力が、ビートにはそなわっているからである。
二〇世紀初頭のモダニズムに対抗して現われたさまざまな作品は、まさにこのリズムを用いてきた。 視覚の自律性という概念の上に視覚芸術を基礎づけようとするモダニズムの野心に、リズムが正面から異議を申し立てたのである。
(省略)
エルンストのイメージから生じるさまざまな効果は、夢の空間のなかで形成されると考えられるが、その効果の多くをデュシャンは、一五年間にわたって作り続けたいくつかの回転円盤(図15・16)、すなわち彼が「精密さの光学」と総称する光学装置によって生じさせたと言ってよい。これらの装置からは、蓄音機のターンテーブルや、音もなくチカチカと明滅する初期の映画など、大衆文化におけるさまざまな表現形式との関連がうかがえると同時に、こうした表現形式の土台となった一九世紀の光学への言及もはっきり見て取れる。さらに「精密さの光学」からは、デュシャンがビートの動きによってイメージを構成することに強い関心をいだいていたこともよくわかる。そこでは、生体リズムのように収縮や膨張をくりかえしながら、前に突き出たり後ろに引っこんだりする螺旋の緩慢な律動によって、イメージが構成されていくのである。だが、それと同時に、そのパルスには、イメージの構造的な変質のようなものがそなわっている。イメージは固まっていくたびに、その後すぐに溶けていく。打ち震える乳房のイリュージョンが退いて、子宮の窪みのイリュージョンに取って代わり、それが今度は膨らんでいって突き出し、瞬く眼球に変質するのである。だが、これを形態変化と呼んでしまうと、このパルスが持つ形態破壊的な力を見逃すことになる。 イメージを絶えず溶解させていくパルスは、われわれが「形態」と考えるものの関心〔=自己保存の傾向〕をあくまでも崩していくのである。
『視覚論』より
ぱっぱっぱっと切り替わっていく20世紀の表現(テレビや映画、ショート動画、ビートの際立った電子音楽など)は、その表現によってイメージされる形態が固まる"前に”それを突き崩していく傾向があると思う。このようにイメージを絶えず溶解させていくリズム(パルス、ビート)がそこらじゅうに転がっている現代は、我々にとっての一つの理想の形態(これはプラトンのイデアみたいなものと考えても良い)と考えるものの関心が固まる前にずっと崩され続けてるんじゃないかってこと(アンフォルム的な何かだ)。
つまり映像の文化というものは、20世紀以降の我々の思考みたいなものに深刻な影響を与えてるきがせんでもない。