つねつきまとい罪悪感(kluftrose)
2022/04/14 17:23kluftrose.icon
ではなくて。
トラウマのこと、家族のことを書くとやってくる罪悪感タイムが来ました。
これを防ぐために、余裕のある時は変換作業(詩なり物語なりに変換する)ができると、よいこともある。
寒いので先に上着を着て寄せた布団を膝に被せ直そう。
自分が直面している出来事が、果たして自分固有のものなのか、わかることができる人なんているのだろうか。たぶん、みんな同じだと信じている人と、そうではないズレを感じ続けてきた人とに分かれるだけなんじゃないだろうか。
そして前者はことの精彩を見ていないのではないだろうか。
(ことの精彩を見すぎるのも、別のことでバランスをとらないと、病を呼び込んでしまうことがある。物事が規格化されすぎた現代では)
トラウマはスティグマだろうか。
(私が完全匿名存在でいられたなら、ばしばし毒家族体験談、などと書いてやるのかもしれないが、多分それでも私は罪悪感に追われるのだろうな)
私のような人が生きるための術を、少しのヒントを、私の人生から拾ってくれればと思い、少しずつだけ数多の「私」は繋がっている。
ボケ老人(差別用語か)のように同じことを同じ言い回しで書くので、同定も容易いと思う。
母のようにたやすくいつか、いつでも私が失われた時、簡単に解約された母の携帯電話のように、私の電子機器たちも廃棄されて、アカウントたちは宙に浮き、それでもネットの「遺産」なるものは物理遺産より簡単に失われるだろう。
そこに私はあまり期待していないし、自分がなにも形を残さずに消えることの確率のほうが高いことをいつも考える。
「星の時計のLiddell」内田善美(集英社)という作品に出会った時から、私のなかで、何者でもないものとして人と関わることだけで何かを微力ながら変え、それを関わりとし、何も残さず消えていくことも生きていたことなのだろうという思いが生まれた。
その時に私の自己表現欲は少し(上手に)折れたと言ってもいい。
うまい言い訳を見つけたという気はあまりしなくて、自分が負わされた負の力を解消するのに使う力と、残された年月への焦りに必死になっていた私に、その考えは猶予をくれた。
恥ずべきこととはなんだろうか。
それを私に持たせた者は、恥じているだろうか。
永遠に帰ってこないボールをいくつ投げただろうか。
それだけはまあ、表現者冥利に尽きるのかもしれない。
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