かもめ読書会
~読書会に関係ある編集(体裁整え含め)なら自由に行ってください~ 11/7~12/611/30まで、詩学文学チャンネルにて。
不定期にVCを行います。
登場人物(神西清訳より)
アルカージナ(イリーナ・ニコラーエヴナ) とつぎ先の姓はトレープレヴァ、女優
トレープレフ(コンスタンチン・ガヴリーロヴィチ) その息子、青年
ソーリン(ピョートル・ニコラーエヴィチ) アルカージナの兄
ニーナ(ミハイロヴナ・ザレーチナヤ) 若い処女、裕福な地主の娘
シャムラーエフ(イリヤー・アファナーシエヴィチ) 退職中尉、ソーリン家の支配人
ポリーナ(アンドレーエヴナ) その妻
マーシャ その娘
トリゴーリン(ボリース・アレクセーエヴィチ) 文士
ドールン(エヴゲーニイ・セルゲーエヴィチ) 医師
メドヴェージェンコ(セミョーン・セミョーノヴィチ) 教員
ヤーコフ 下男
料理人
小間使
VC
第一回VC
参加者:ウボァ、アレクセイ
11/9 23:08~24:34
BGM:浅川マキ「かもめ」
出来事:通信不具合のため一時離席→discord自体の不具合でした(PCのみ??)こういうときのためにアープラノートはある
第二回VC
参加者:アレクセイ、トーチカ、で電
11/14 24:00~25:45
サッカー日本VSパナマを観ながら
あんまり読む人いなさそうなんで、期限短くしよーかなとおもってます 戯曲ですし
この作品は深読みというより、感想を聞きたいだけというのもある もちろん盛り上がったらそれはそれでいいけども
先に人物をメモっといたほうが読みやすそう
かもめもなかなか難しい
支配人って実務を担うトップって感じで合ってますかね?ソーリン家の名目上のトップはソーリンですよね?
はい、ソーリンですね。
あ、アルカージナみたいな感じもする 屋敷はアルカージナのものだったような?
支配人は血縁関係にない、というのが分かれば、とりあえずそれを前提知識として読んでみます〜
アルカージナはなんか嫌な感じですな
アレクセイ.iconこれだけはいっておく、登場人物ではドーリンが好きだ(ドヤ)
ドールンでは……?
ドールンは山路和弘という役者さんがやっていて、渋かった。それもあるかもしれない
とりあえずドールンさんは素敵ですね。優しそうで、男前の紳士で良い。
キャラの好き嫌いや印象も聞いていきたい
トレープレフが接吻したシーンを想像して、なぜかトレープレフが一気にイケメンのイメージになった。
私は坂口健太郎の舞台をテレビでみたのでその印象がぬぐい切れずにいます
ビョルン・アンドレセンをもう少し若かりしブラッド・ピットに寄せたイメージです。
とりあえず、ニーナとはバンドの解散みたいな感じで、価値観の相違で別れそうだ。
アルカージナを演じる女優はすごくオーラがある人でないと成り立たない劇だとは思うた
名前や役職などから想像してたシャムラーエフのイメージ、むしろドールンの方に合いそう。シャムラーエフを男前だと勝手に考えてました。
シャムラーエフは演劇で見たあと全然印象に残らなかった。
いろんな作品への言及があるんですよね
トレープレフくんいいですね。調子いい時のぼくのようです。泣いちゃうところも親近感湧きます。
トレープレフくん、可哀想だけど、まあうん、自業自得なところもあるかな……。今のところ。
長台詞があまりない芝居だなあ
読み終わったけど、誰も幸せになりませんな……
まあある意味でニーナ?
ちゃんと理解できてない部分も多そうです。「かもめ」の意味もよくわかってない
解釈はわかれそうですね~。
これはこたえる人にはこたえるラスト
しかしトレープレフくんは作家になりたい欲よりも、母やニーナからの評価を手に入れたい方が大きかったのかな
そうかもしれません。また、調子の悪い時などにそばにいてくれる人が欲しかったのかも?
するとトレープレフくんにとってトリゴーリンはすべてを持っていたんですね。目指すべき人物像であり、だからこそ憎い人物だったのかな
トリゴ―リンはけっこう受身ですしね。その上、自分とは異なる(古い?)芸術観みたいなものをもっているライバルだというところも許せなかったのかも
ニーナは同じ価値観を共有する「同志」にして霊感を与えてくれるミューズのはずでしたし
「かもめ」=「ニーナの恋」ってのは納得できますね。あと、さらっとかもめが出てくるところを読み返すと、トレープレフくんが「このかもめのように自分を殺す」みたいなことを言ってるんですね。これはラストをそのまま予言してたんですね
けっこう、作品自体のあらすじをなぞった台詞が散見されますね。
各人の考察
SHUNASHUNAさんの考察
さてこれは喜劇だそうですが、一読してみると「どこが喜劇なんだよ???」と感じた方は少なくないと思います。
ロシア演劇の上演に定評のある劇団「地点」の『かもめ』についてのアーカイブをご紹介しますね。↓
(『かもめ』の魅力は、)この悲劇を〈喜劇〉と名づけた作者の魂胆にあると思います。
なぜチェーホフは悲劇的な戯曲を喜劇と宣うのか、というのは気になるところです。また考えてみます。今のところ、チャップリンの名言「人生は近くで見ると悲劇だが、
遠くから見れば喜劇である。」が脳裏に過りましたが、チェーホフとチャップリンの活動期は重なりません。
もしかしたら悲劇と喜劇に関する考えが似ているのかなという推測だけ。。
ニーナがなぜ「かもめ」と喩えられるのか、ニーナと「かもめ」の類似点と、「わたしはかもめ」という言葉に込められた感情を想像してみるのも面白いなと思ってます。
最初は無邪気に自分をかもめだと喩えていたニーナですが、終盤では強迫観念のごとき響きを感じます。
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『かもめ』を喜劇然として上演するならばドールンはかなり“要”の存在な気がします。ウィットな発言や緊張を解く弛緩的発言の大半はドールンによるものが多いですよね。ドールンを演じる役者の力量次第でも受ける印象はだいぶ変わりそうです。
私のくすぐられた箇所
ドールン「だって、この僕に一体、何がしてあげられます、ええ? 何が? え、何が?」
アルカージナ 「デカダン……!」
『かもめ』の「かもめ」について考えてみました。
かもめ自体の特徴(鳥、水鳥、渡り鳥)からニーナとの類似点を考えてもまだちょっと何も思い浮かばないのですが、作中での「かもめ」の扱いを考えてみると、ひとつ気が付いたことがあります。
もしかしたら、「かもめ」は「ニーナの恋」のアナロジーなのではないでしょうか。
当初「かもめ」が言及されたのはトレープレフと円満に交際しているところでした。
でもあたしは、ここの湖に惹ひきつけられるの、かもめみたいにね。……胸のなかは、あなたのことでいっぱい。
次に「かもめ」が出てくるのはトレープレフが鷗を殺したとき。
この時、ニーナとトレープレフの関係は決定的に悪化しています。
つまりニーナの恋をトレープレフは自分で終わらせてしまったのです。(舞台を自ら途中で終わらせてしまったことがニーナの恋を終わらせたのでしょう)
そしてその直後に姿を現したトリゴーリンとの恋が始まります。
(鴎を見とめて)なんです、これは?
ニーナ かもめよ。トレープレフさんが射ったの。
トリゴーリン きれいな鳥だ。いや、どうも発ちたくないなあ。
そしてのちにわかることですがトリゴーリンはトレープレフが殺した鷗の死体を剥製にしました。(しかも本人は覚えていない)
……題材が浮んだものでね。……(手帳をしまいながら)ほんの短編ですがね、湖のほとりに、ちょうどあなたみたいな若い娘が、子供の時から住んでいる。鴎のように湖が好きで、鴎のように幸福で自由だ。ところが、ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまう――ほら、この鴎のようにね。
上の引用のごとく、トリゴーリンはニーナを破滅させます。
剥製とは、展示用に死体を生きているかのように見せかけて保存するものです(シュナシュナ定義)。
小説の題材という動機から、恋愛を始めて、その内実は偽物の愛に過ぎなかった
トリゴーリンとニーナの恋のことを、「かもめの剥製」が象徴しているように感じられます。
このことから、ニーナが終盤しきりに「わたしはかもめ」と繰り返すのは、まだ自分は恋をしているのだと言い聞かせているような印象に感じてきました。
このシーンではトレープレフにもトリゴーリンにもまだ気があるようなセリフがみられました。(しかしそれはなぜだか空虚に感じる)
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ささいなことですが、トレープレフと2人で話すときにニーナはいつも周囲を気にする描写があるのですが、これもニーナのトレープレフとの恋に対する姿勢というのを象徴しているようでトレープレフはほんとうに不憫・・・
アレクセイの考察
『かもめ』がはたして喜劇か、悲劇か……
これはかなり大きい問題かもしれませんね
私は以前、テレビで舞台を観た(坂口健太郎主演)のですが、今回文章として読んで舞台と同じ印象と、違った印象を受けました。
羅列すると、
・個人的な感想として、人物でいえばドールンが興味深い(次点でアルカージナも)。しかし作品としては全員重要だとおもう。
・劇中のいたるところに、会話の機能不全みたいなことが起こっている。最後の山場は特に。これは台本を読んで強く感じた。
・喜劇だとして、爆笑するようなギャグは(たぶんわざと)ないが、いわゆるくすぐりのようなものは散見される。
・読んだときに、「間」も考えないとわかりづらいところが多々ある。
・本来ドラマになるような場面や事件はすべて裏で起きている。だから「舞台裏のセリフ」を聞いているよう。しかも、それが場面や事件を暗示している。
・トリゴーリンがかもめの剥製について覚えがないのはおもしろい。
読む人によって感想や印象がかわりそうな作品ですね!
5番地さんの考察
チェーホフ『カモメ』について。
何がニーナに起こったのか?
・ニーナは自身を「カモメ」と評する。
・トレープレフは「カモメ」を撃ち落とす
・トリゴーリンは「ほんの短編」の題材をニーナに告げる。ニーナのような娘がいる、その娘はカモメのようである。
・その娘を「男」は破滅させる。トリゴーリン「ほら、この鴎のようにね」。
ニーナは女優になったものの、落ちぶれる。しかし、トレープレフに話しているときのニーナはまるで、ニーナに作家の辛さを語っていたときのトリゴーリンのようである。
「舞台に立つにしろ物を書くにしろ同じこと。私たちの仕事で大事なものは」、ここでの「私たち」とは、ニーナとトレープレフにではなく、ニーナとトリゴーリンだとしたら? トレープレフの返答なんかニーナにはたぶんどうでもよい。むしろ、トレープレフには怒ってもらっていなければ困るのだとしたら?
ニーナがトリゴーリンの言った「ほんの短編」を実演しているのだとしたら、ニーナは「破滅」しなければならない。だからニーナにとってはむしろ、自分に対するトレープレフの慕情は邪魔なのである。
トリゴーリンは、ニーナによるニーナに関する自己評価(カモメのように湖に惹きつけられる)と同様、「ほんの短編」に関する説明のなかでニーナをモデルとした娘を「カモメのような」と形容する。このときニーナには、トリゴーリンが真実を見る者として映ったのではないか。そして真実を見る者トリゴーリンが、「ニーナ」の「破滅」を語る。それはおそらくニーナにとって、自分の行く末に関する筋書き、予言だったのではないか。
トレープレフが持ってきたカモメ、この「象徴」の意味を、ニーナはトリゴーリンから受けとったわけだ。
ニーナはこのときすでに、カモメになったんではないか。
ニーナはトリゴーリンに、自分の行く末を見定めた知者トリゴーリンに、「私たちにだけわかる暗号」よろしく、トリゴーリンの著作からつぎの言葉をもちだす。「もしいつか、わたしの命がお入り用になったら、いらして、お取りになってね」。つまり、「ほんの短編」の完結を、撃ち殺されたカモメのようにニーナを殺すことをトリゴーリンが決めるときをこそ、ニーナは待っている。すでに自身を「カモメ」のように位置づけている。
トレープレフの、
「トレープレフ (間をおいて)まずいな、誰かが庭でぶつかって、あとでママに言いつけると。ママは辛いだろうからな。……
二分間ほど、無言のまま原稿を全部やぶいて、デスクの下へほうりこむ。それから右手のドアをあけて退場」
は、よくわからない。
おそらくデスクの下から拳銃を取り出したんだろう。
となると、「誰かが庭でぶつかって」は、誰かが自分の死体に出くわして、みたいな感じなんだろうか。
ニーナとの別れによって、これからの信念、拠り所みたいなのを失い、死ぬ気になった。そしてママを思いはしたが、しかしそのママは自分の「新形式の」戯曲を嘲弄し、今の自分の作品になんの関心もない(鑑賞する暇がないと言いながら遊んでいる)。
ママを思うことでブレーキをかけようとしたもののママを思ったことでむしろブレーキが壊れた感じか。
マーシャと仲良くなっていれば、扉の前に椅子を置きさえしなければ、一緒にロトをしていれば、ニーナに気づきさえしなければ……まるでピタゴラスイッチのように、うまい具合に、トレープレフは「鴎」になる。
ニーナは意識的にカモメになろうとして、トレープレフはたまたま鴎になってしまった、みたいな感じだろうか。おそらくニーナは「カモメ」になりきれないんだろう。当のトリゴーリンは「カモメ」の意味をわかっていないから。
しかしきっと大作家ニーナなら、トリゴーリンが訪れないことにも象徴を見出すだろう。