あらゆる哲学的言説は、言語活動と唾が同一の源泉から発しているという事実ゆえに、唾を飛ばす演説者という不作法なイメージでたとえられるのがふさわしい
ばる.icon唾は、高尚な哲学的、言語活動の階級を落とす操作が可能なのである
ramen.iconこの理屈だとオペラ歌手の歌も同じことにならないだろうか
イタロー.icon出典しりたい
ばる.icon私がこの文章を見つけたのは『アンフォルム 無形なものの事典』という本の序論(P17)です。本にはこの文章の出典が示されており、Michel Leiris, "Crachat: L'Eau à la bouche," Documents 1, no. 7 (1929), pp. 381-382.と記されています。ジョルジュ・バタイユが中心となり発行した雑誌『ドキュマン』の1929年第7号の「辞書」という項目にある一つ「唾:よだれ」からの文章のようです。「唾:よだれ」はミシェル・レリスが書きました。ちなみに河出文庫から出ている『ドキュマン』にはこのレリスの文章は掲載されていません。ドキュマンからバタイユの文章のみを集めたものだからです。 この文章は哲学的言説を挑発しているわけですが、具体的に何を批判したかったかというと「観念論」「観念」や 「エイドス」「形態(形相)」なるものを唱える観念論者のようです。『ドキュマン』のこの文章の次項にはバタイユ自らが寄稿した「不定形の」という文章があります。「不定形の」は河出文庫にも掲載されていますが、こちらの訳注に訳者の江澤健一郎氏の解説がありますので引用します。 『ドキュマン』においてバタイユは、 「観念」や 「観念論」 を批判していた。そして 「不定形の」では「形態」を批判するが、彼の立場は一貫している。「観念」の原語はフランス語の「idée」 であり、「形態」は「forme」である。前者の語源はギリシア語の「イデア」であり、イデアは「見える形」を意味する。プラトンは、このイデアを哲学的概念として用いたが、それとほぼ同義で「エイドス」という概念も用いている。そして、この単語は「形態」を意味する。つまり、バタイユの観念論批判は、ここで「イデア」「エイドス」批判としての形態批判として現れているのだ。観念論者、哲学者は、世界に形態の網の目をフロックコートのように張り巡らし、形態にもとる異質なものを「不定形の」という形容詞を用いて貶め、踏みにじる。しかしバタイユは、世界はいかなる形態にも似ていず不定形であると断言しながら、それを肯定する。こうして肯定されるのは、「~である」形ではないが、しかしけっして無形ではなく、なにか蜘蛛や唾のような、「のような」得体の知れぬ不定形、形態の侵犯、そして侵犯的な形態である。
訳語に関して付言するなら、「不定形の」の原語である 「informe」は、通常は形容詞として用いられ、バタイユもそのように用いている。ただし、名詞化する用法も可能であり、レリスは、先行項目「唾(2) よだれ」において、そうして唾を「不定形の象徴そのもの」と定義している。また、本文中の「価値を下落させる(déclasser)」 は、「分類を潰乱する」と訳すこともできるし、最後の「不定形にほかならない、と断言すること (affirmer)」 は 「......と肯定すること」と訳すこともできる。
河出文庫『ドキュマン』P145より
イタロー.iconおお出典だけでなく詳しい背景も教えて下さり感謝です。観念論(者)批判ですか。バタイユ(レリス)は不定形の捉え方を逆転させたのですね!