【ニーチェ】超人は大地の意義である。この文章変じゃないですか?【独自解釈】
前提:超人像
個人が自己を乗り越えて超人になるなんてことは起こらない久住哲.icon
人間個人が超人になる、そんなことが書かれてあっただろうか?
ツァラトゥストラですら超人ではなく、超人の伝令者である。
ツァラトゥストラが超人になるような描写はない。
ツァラトゥストラは雨粒であり、超人は雷電である。
超人は生まれる久住哲.icon
むしろ超人は生まれると言った方が適切ではないだろうか
超人が生まれるなんてどこに書いてるのか?という異論はもっとも。だが先に進む。
ある個人が、凡人から天才に変わることはない。
生まれたときから天才である
ニーチェは「アンチクリスト」において、ルサンチマン道徳は「生の上昇運動、出来の良さ、権力、美、自己肯定」に反対するものだと言っている。全集196ページ(傍線久住哲.icon)
まだ能力の分からない子どもが天才になる
超人が生まれて超人に育つ
まだ未定形な幼児が超人に育つ
成人人間が成人超人になるのではない
『アンチクリスト』における「超人」
「アンチクリスト」では、あるタイプの人間を意欲し、そういった人間を育成するというアイデアが語られる。 ニーチェが意欲すべきだとしているタイプの人間が「超人」ではないか
「アンチクリスト」の文脈での「超人」は、これまでの歴史上でも出現してきたものとして語られる。 キリスト教はこのタイプの人間を排除してきたのだと語られる
ツァラトゥストラが「超人は大地の意義である」と言えるのはおかしい
どうしてツァラトゥストラは超人を規定できるのだろうか?
ツァラトゥストラ自身は超人でないし超人を見たことだってないだろう
超人はいずれ現れるものだ
ツァラトゥストラはどうしてあらかじめ超人のあり方を「大地の意義」に制限できるのか? 「海の意義」とか「天空の意義」とかの可能性もあるんじゃないですか?なのになぜ大地に限定?
ツァラトゥストラの序説の3の一節(中公文庫p16)
超人は大地の意義である。あなたがたは意志のことばとしてこう言うべきである。超人が大地の意義であれと。
Der Übermensch ist der Sinn der Erde. Euer Wille sage: der Übermensch sei der Sinn der Erde!
ツァラトゥストラのアクセントは「大地」に置かれているだろう。
異論
文字通りには「あれ sei」がイタリックで強調されている
天才パウロは超人であったか?
ニーチェはパウロをめちゃくちゃディスる
ニーチェはパウロを「天才」と呼ぶことがある
パウロがキリスト教的な価値観を打ち立てた
価値を打ち立てられるのは天才の証だ、ということではないか
パウロはこの世(大地)に意味はないと言い、「肉」を軽侮した(のだったと思う)
意欲なしに育成はない
おそらくほぼ確実に、「精神」は育成されなければ野獣のままだ
どういう人間像を目指すかについてのコンセプトなしで育成はできない
「男らしく育ちなさい」と男らしさを意欲するから、そういう教育をほどこす
「美しくありなさい」と美を意欲するから、そういう育成をおこなう
超人を意欲するならば?……
およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創ってきた。ところがあなたがたは、この大きい潮の引き潮になろうとするのか。人間を乗り超えるより、むしろ獣類に帰ろうとするのか。[傍線久住哲.icon]
反論
「およそ生あるものは」とあり、人間だけの話はしていない。だが、育成できるのは人間だけではないか?もちろん動物も子育てをするが、それは「おのれを乗り超える」ためではない。どちらかといえば、おのれ並みにするためだ。
ツァラトゥストラはこう言いたかったのではないか
次に来る超人は〈大地〉をベースとする者であれ
超人が来る(生まれる、育つ)を意義とせよ。しかも、それは〈大地の〉意義だ。
ツァラトゥストラは「超人は大地の意義である」と言うことによって、超人のありうべき形態をあらかじめ制限しているのではない。
ツァラトゥストラはまだ存在しない超人についてあらかじめ規定しているのではない。
ツァラトゥストラは意欲する方向を提示している。
指し示す先に「超人」と「大地」がある
超人は超人として存在するので、ただそれを待てばいいのではない
超人を示すために没落していく人たちが何人も何人も必要になる
大事なのは超人を意欲すること
より積極的に言うと:超人を育成する(新しい価値の定立)
より消極的に言うと:超人を排斥しない(ルサンチマン道徳をやめる)
別な方向として「眠り」がありえる
結論
「超人は大地の意義である」は変ではない
これは固定された存在者の規定をなす文ではない
これは来るべき超人という方向を示すためのものだ