『魔の山』佐藤晃一訳・まえがき
まえがき
わたくしたちが物語ろうと思うハンス・カストルプの物語、――これは、彼のために物語るのではなくて(というのも、いずれは読者にもわかるように、彼は、人好きはするが単純な青年にすぎないからである)、非常に物語る価値があるように思われる物語そのもののために物語る(とはいうものの、これが彼の物語であって、誰にしても自分の思いどおりの物語がその身にもちあがるわけのものでないという事情は、やはりハンス・カストルプのためにことわっておかなければならないと思う)のだが、この物語は非常にむかしのことで、いわばもうすっかり歴史の錆に蔽われているものなのだから、どうしても最大級の過去で物語らなければならないのである。
これは、物語にとって不利なことではなくて、むしろ有利なことであろう。物語というものは過去のことでなければならないからである。そして、過去のことであればあるほど、物語の性質にもかなってくるし、囁くような声で過去形を呼び出す物語り手にとっても都合がよくなる、と言えるように思う。わたくしたちの物語は、今日の人間、とりわけ今日の物語作者たちと同じように、実際の年数よりもはるかに年を取っているのだが、それは日数では勘定できないし、その年齢にしても、地球の公転回数で計算するわけにはいかない。ひとことで言えば、この物語は、どのくらい過去のものかという過去性の程度を、実際には時間のおかげで獲得するのではないのだ、――こう言って、時間というこの不可思議な要素の問題性や独特な二重性を、ついでながらここでそれとなく指示しておく。
しかし、明瞭な事情をわざと曖昧にすることはやめよう。わたくしたちの物語が非常に過去の物語だというわけは、それがある転回点以前に起こるものだからである、すなわち、わたくしたちの生活や意識を深刻に分裂させる変化が生じた境界線以前に起こるからである、というか、または、なるべく現在形を避けて言うと、それが起ったのは、以前のこと、かつてのこと、昔のこと、世界大戦前の世界でのことで、あの大戦の開始とともに非常に多くのことが始まったのだが、それらのことは今日にいたるもまだ始まるということをほとんどやめていない。というようなわけで、これは、ずっと昔の物語ではないにしろ、昔の物語なのである。しかし、物語の過去的性格というものは、物語が「昔」のものであればあるほど、いっそう深く、いっそう完全で、いっそう童話ふうなのではあるまいか? その上、わたくしたちの物語は、内的性質から言うと、その他の点でも何かと童話に関係があるかもしれない。
わたくしたちはこの物語を詳しく話すことにする、精密に徹底的に話すことにする、――というのも、物語の面白さや退屈さが、物語の要求する時間や空間に左右されたというためしがあるだろうか? むしろ、わたくしたちは精密すぎるという悪評など恐れないで、徹底的なものだけがほんとうに面白いのだという考えにつきたい。
そういうわけで、この物語の作者は、ハンスの物語を転瞬の間に語り終えるというわけにはいかないだろう。一週間の七日では足りないだろうし、七ヵ月でも間に会わないかもしれない。一番いいのは、この物語にまきこまれているあいだに地上の時間がどのくらい経過するか、それを作者が前もって予定しないことである。まさか七年もかかることはあるまい!
それでは始めることにしよう。