『論理哲学論考』メモ(はじめ)
31日
語りえないものは「○○と○○だ」という形ではなく「○○以外」という形の方がすっきりとしているだろう。
今日は等号(=)の話。ラッセルの考えに対して、ヴィトゲンシュタインは等号は必要ないと主張する。というのは、a=aであればそれは言う必要がないし、a=bであれば別々のものが等号で結ばれることはないからだ。これは二人の哲学の違いに起因すると考えられる。ラッセルは抽象的な記号の世界を見ているのに対し、ヴィトゲンシュタインは記号だけではなく現実世界を念頭に置いているからだ。
30 土
論理形式は一般形式よりも上位概念ということだ。
語りえないものが倫理と論理だというのはよく言われるが、倫理は語ろうとすれば、語ることができてしまう。それに対して、論理(論理形式)は文字通り語ることができない。
28 木
論理形式は語ることができず、示されるものである。これはたとえば命題であれば、我々が普通に使う文章の中に論理形式は内蔵されており、その論理形式だけを抽出して取り出すことはできないということである。それでは一般形式という言葉はどうか。一般形式と論理形式は同じだろうか。一般形式もまた語りえないだろうか。たとえばxという変項がある。この変項は定項に対して明らかに一般性を有しており、一般形式だといえる。そしてこのような形での一般形式は、ヴィトゲンシュタイン本人も様々な形で論考内で具体的に提示をしている。
語りえないものを語ることは禁じられているのだろうか。
ただこの具体と抽象が別々に存在しているわけではなく、具体の中に既に抽象が内蔵されているというような考え方はヴィトゲンシュタインの真骨頂であり、自分も好きな考え方である。
10/27 水
5.515に、たとえばpvpのpは単純記号(名)ではない、つまり命題でなければならないという話が出てくる。理由はpが名であれば、pが単独では意味を持てなくなる。そうなるとpvpも意味を持ちえなくなり、pvqも意味を持ち得なくなるというものだ。これは1.1の「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」につながる発想だと思う。
『論考』は名ではなく命題を考えの基本に置いている。1.1はこのことの宣言でもある。
10/25 月
『論考』はヴィトゲンシュタインの勉強をする上での基礎トレのようなものだと思っている。というのはその後のほとんど全てのテーマに必ずと言っていいほど、『論考』否定の要素もしくは引継ぎの要素が盛り込まれているからである。
数学、論理学などの記号と規則で成り立っているような学問における言葉の意味とは何か、というような問題をよく考える。ここでいう言葉とは数学的な記号などではなく文字通りの言葉である。例えば数学のチャート式などをやっていると、言葉による説明がよく出てくる。これは学習者の理解を助けるためである。これは直観的なイメージを利用しているという側面もある。果たしてこのようなことは数学に本質的なことなのだろうか。逆にいえば、一切言葉を用いずに記号のみで数学の命題を伝えることは可能なのだろうか。もしくはこれは数学においては本質的なことではなく、伝達の際に必要とされることなのだろうか。このような記号体系における言語の役割という問題が『論考』にも出てくる。
高校の物理の勉強をしていても似たような課題を感じることは多い。高校物理の問題は、直観的なイメージをベースとして問題を解いていく場面が多い。しかしこの直観的なイメージという曖昧なものをどのようにして学習者に教えることができるというのか。もちろん現実的には絵や画像、具体物を使って教えている。だが、このイメージを思い浮かべる力というのが学習の本質的な要素として求められるというのは、それでいいのかなとは思うポイントである。
これは中学校の数学における図形を思い浮かべる力ということにも似ている。中学数学が苦手な子の中には、この図形を思い浮かべる力が無いというのが大きな原因の一つとしてある。教科書の中で二次元で書かれた絵を頭の中で三次元のものとして復元する力が無いのである。これを補うための指導法として、具体物として三次元の図形を提示したり作成をしたりする方法がある。しかしこれを繰り返すことにより、二次元から三次元につなげる力が養える保障はない。ここで3パターンの生徒が考えられる。①最初から二次元から三次元への復元力がある子。②具体物での訓練を積むことにより復元力を習得する子。③訓練を積んでも結局復元力を習得できない子。このような復元力という問題は数学の記号を展開していく力とはまた別物のように思う。しかしいわゆる勉強が得意な子というのは、復元力も記号展開力も当然のように備えているから不思議なものである。
自分には元々幾何学と数式を同じ「数学」という言葉で呼んでいいのかという根本的な疑問がある。数学史的にはデカルトがこの二つの分野を解析幾何学という形で融合していくのであるが。でもこれは結局50:50の融合なのではなく、幾何学を数式に還元するものだろうなというのは思う。数学史的にはここから数式優位の文化になっていく。
2021/10/24 日
論理学において記号と規則を導入すれば、自動的に全ての命題は作られる。それを把握可能という視点に立っているのが『論理哲学論考』の立場である。論理的には把握可能ということだ。これが「論理には驚きはない」という言葉でも表されていることである。しかし、「論理的に把握可能」ということと「把握可能」という認識をすることには開きがある。だがこの開きが無いというのが『論考』の特徴である。 現実的には全く把握可能ではない。少なくとも人間には把握可能ではない。人間に把握可能な数というのはせいぜい限られている。有限である。これは数学基礎論の直観主義に通じる考え方である。この辺りに、ブラウワー講演で刺激されたことの鍵があると思う。
論理学において記号と規則を導入すれば、自動的に全ての命題は作られる。これを把握可能とするのは、非常にコンピュータ的だなと思う。コンピュータなら可能である。
またここは数学の組み合わせも思い起こさせる。
自分も一昔前は、理屈で可能なことを現実的にも強引に推し進めようとしていた。自分の感情とかを無視して。若い時はそうなりがちなのかもしれない。
はじめ.icon