『思惟とは何の謂いか』の移行部分の翻訳
以下、久住哲.iconによる拙訳(最初のごく一部)
S.17
だから、私たちはここで、思考することを学ぼうと試みる。ここでは、私たちは一緒に道を歩くのであり、警告するようなことはしない。学ぶとは、そのつど自身の本質的なところを私たちに告げ知らせてくれるものに対応するような方向へと、自分の振る舞い方を持ってゆくことをいう。この本質的なところの性質によって、〔或いは〕その告げ知らせがどういった領域から聞こえて来るかによって、その対応はそのつど異なったものとなる。それにともない、学びの性質もまた変ってくる。 例えば、家具職人見習いが、櫃(箱)の作り方だったりを学ぶのだとしよう。学ぶとき、この家具職人見習いは、色んな道具を使用することの技能だけを訓練するわけではない。また、作るべき物の形が普通はどうなっているのかについての知識を得ることだけが、学ぶことなのではない。彼が本当の家具職人になるときには、彼は何よりもまず様々な種類の木材と、そこに眠っている形に適合するようなあり方へと自分を持って行っている。木材が、木材自身の本質の隠された豊かさをもって人間の住むことのうちに突出してくるほどになるまで、木材に適合している。更に、この木材への関係は、手仕事全体を支えている。 (中略)
しかし、家具職人見習いが〔その仕事を〕学ぶに際して、木材または木製物に適合するようなあり方を得るか得ないかどうかは、きっと、見習いにそのようなことを教える者がそこに居るかどうかにかかっているだろう。 本当にそうだ。教えることは、学ぶことよりもさらに難しい。このことはしっかり知っておくべきことだが、こういったことを考察する人はほとんどいない。どうして、教えることが学ぶことよりも難しいといったことになるのか?この難しさの理由は、師が〔学ぶ者よりも〕より多くの知識を所有しており、その多くの知識をいつも準備しておかなければならないからではない。教えることが学ぶことよりも困難なのは、教えるということが学ばせるということであるからだ。本当の教師は、学ぶということの他には、何も学ばせない。したがって、そのような教師の振る舞いは、『この人のもとでは本当に何も学べない』というような印象をしばしば与える。ただし、これは、学ぶ人がいつの間にやら「学ぶ」ということで「有益な知識の獲得」というぐらいの意味にしか理解していない場合の話である。師は唯一次の点でのみ見習いよりも勝っている――すなわち、師には見習いよりもさらに多くの学ぶべきことがある、という点で。この更に学ぶべきこととはなにか。学ぶようにさせる、ということだ。師は見習いたちよりも、より教えてもらえるようなあり方を出来なければならない。師は、自分たちのことを学ぶ者たちよりも、自分自身の事柄について更に不確かで安心できない。したがって、師と見習いとの関係においては、もしそれが真正なものであるならば、物知りであることの権威は力を持たず、また、その彼が委託されたものに関して権威でもって感化させるといった感化は、全く力を持たない。だから、師になるということは、やはり高級な事柄である。この際、師となるというのは、有名な大学教員であるということとは全くべつなことだ。全てのものが低い方へ或いは低い方から(例えばビジネスから)測られるような今日の情勢においては、もはや師となりたがる者はない。このことは、おそらく、この高級な事柄の、その高さによるのだろう。おそらくこの反感は、〔私たちを〕憂慮させるあの最も憂慮すべきことと、関連しているだろう。師と見習いとの本当の関係を、ちゃんと目に留めておかねばならない。もしも、この講義が進むなかで、学ぶということが目ざめてしかるべきであるのならば。