『幸福とは何か』の要旨
それは、「静けさ」と「平穏さ」は幸せの最も基本的な条件であり、またこれら二つは「身近さ」にも通じているということ。
静かで、平穏で、身近なしあわせ、──そこには取り立てて目を引くものはない。なくていい。ないほうがいいとまでいう必要はないが、暮らしのゆったりとした時間の流れのなかで感じられるしあわせが、目立たない、さりげない、地味な場面にふさわしい身心のさまであるのは疑いを容れない。
それはまた「さりげなさ」にも通じている。
つまり、しあわせの基本形が静けさ、平穏さ、身近さ、さりげなさにあるということが確認される。
実際、著者は本書のインタビューにおいても以下のように語っている。
わたしは、おだやかでつつましくて、充実しているという生きかたが幸福だと思います。そして、自分個人の幸福は捨ててはいけないものだと強く感じています。
その後に古代ギリシア・ローマの幸福観、西洋近代の幸福観、20世紀の幸福観、幸福論の現在を代表的な様々な著作から確認し、最後に幸福論はどうあるべきかが示される、といった構成になっている。
そして、幸福が何気ない日常の静けさ、穏やかさにあるという著者の幸福観から、終章では以下のように断定される。
メーテルリンクの青い鳥が、夢の旅から帰ってきたチルチルとミチルの部屋の鳥籠のなかにいたように、また、夜ふけて議論を続ける猟人たちにとって犬のあくびがかれらを安眠へと誘う幸福の合図となるように、幸福はなにげない日常の出来事に導かれて自分の体と心を立て直すといった、そんな動きの積み重ねのなかに育まれる。
だとすると、幸福は華々しいものでも晴れがましいものでもなく、また、必死になって求めるものでもないといわねばならない。
私たちは今、21世紀に生きている。21世紀という時代は政治・経済・文化の支配力が人々の日々の暮らしに容赦なく及んでいる。それは二つの意味で、こうした著者の示す幸福観、「穏やかさ、安らかさ、ゆるやかさを基調とする幸福のイメージ」を揺るがそうとする。
一つは戦争やその逆の好景気といった、陰にも陽にも外部からやって来る政治・経済・文化の力が人々の身近で穏やかな暮らしに大きな変化を及ぼす場合。
もう一つは人々の心に内面化された生き方に変化を及ぼす場合。例えば、拡大再生産を基本とする資本主義体制によって私たちは「進歩をよしとし、進歩のうちに生の充実を求める感性」が経済の領域を超えて染みついてしまっている。 効率を重視する心性、速度の向上を喜ぶ心性、便利であることを人間的にゆたかであることと思う心性、みずから競争の場を設定しその場で少しでも人に先んじようとする心性、競争に勝つためなら過剰の緊張と労苦にも耐えていこうとする心性、──わたしたちの日常に広がるそうした心性は、進歩をよしとする近代の社会意識から派生したものだ。
そうした心性は、しかし、人びとを幸福へと導くものではない。それどころか、そうした心性が他をさしおいて一方的に昂揚し、個人の世界を、あるいは集団の場を広く支配するようになると、幸福とは背反する方向へと人びとを導きかねない。
つまり、日々の暮らしとともにある穏やかでゆるやかな幸福が政治的・経済的・文化的な外部の力によって揺さぶられ、進歩思想に付随する努力と緊張と忍耐にこそ生の充実を求める心性がゆったりとした穏やかな幸福の心境を掘り崩そうとする現在の状況が、私たちの幸福論を取り巻く現状だと言える。 だから、私たちはこういった外部の物理的・精神的な圧力に対し、抵抗しなければならない。しかし、抵抗の姿勢はなにほどかの努力や緊張や忍耐を内包せざるをえない。そして、抵抗の内包する努力や緊張や忍耐は、度が過ぎれば幸福とは相容れない境地へと人びとを拉し去るから、幸福を手放すまいとする抵抗には、幸福の基調である日常的な落ち着きやゆとりが備わっていなければならず、また抵抗そのものが穏やかでなければならない。
外からどんなに深刻な問題がやってこようと、幸福の大切さ、幸福論の大切さは守られねばならない。外から大きな問題がやってきて身近で穏やかな幸福を圧しつぶそうとするときにこそ、かえって幸福論の真価が問われるといってよい。外からくる問題の大きさが幸福論を激しいものにすることへの警戒心、それがなにより求められる。